ミミ、遠い叫び
          原作:フレドリックブラウン
          アランフィールド
           
            プロローグ
             
 酔ったアイルランド人がなにをするかなんて、だれにも分からない。
どうでもいい予想ならすることはできる。多くのどうでもいい予想を。
 可能性のある順に、見てみよう。もっともありそうなのは、もう一杯
飲んでから、ケンカし、スピーチをし、列車に乗る。ありそうもない方
に下りて行ける。グリーンのペンキを買う、もみじの木を切り落とし、
愉快なダンスをし、「神は王を救う」を歌い、オーボエを盗み━━━さ
らにありそうもない方に下りると、ついには、可能性ほぼゼロの最終地
点に辿たどり着く。彼は、決心し、がんばるかもしれない。
 それは、信じられないことだが、ほんとうに起こったのだ。




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            登場人物
             
スウィーニー:酔っぱらい、元ブレード社の取材助手。
ゴッドフリー:愛称ゴッド、高齢の浮浪者、背が高くやせている。






 男の名前はスウィーニー、シカゴで一度それをやった。彼は決心し、
血とブラックコーヒーの間を苦労して進まなければならなかった。しか
し、彼はそれを守り抜いた。たぶん、常識からすると、それは良い決心
ではなかったかもしれない。しかしそのことを別にして、肝心なところ
は、それが実際に起こったということ。
 ここで言い訳しておくと、真実というのは、とらえ所のないものだ。
あるパターンに沿うことは、決してない。そう、「スウィーニーという
名前の酔ったアイルランド人」は、あえて呼べば、1つのパターンだ。
しかし、真実は、そんなシンプルなことはめったにない。
 彼の名前は、たしかに、スウィーニーだったが、8分の5のアイルラ

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ンド人で、飲んだのは、たったの4分の3ガロンだった。しかしそれは、
ほとんど事実だし、近似的に、パターンだ。そんな簡単に解決して欲し
くなければ、読むのをやめた方がよい。やめないなら、あんたには悪い
が、これはそんなにすばらしいストーリーではない。ここには、殺人も
出て来るし、女も酒もギャンブルも、ごまかしさえ出て来る。ストーリ
ーがまだ始まる前に殺人があって、終わったあとにも殺人がある。実際
のストーリーは、裸の女で始まり、終わったあとも出て来る。オープニ
ングとエンディングはすばらしいが、そのあいだは、まったく、すばら
しくはない。あんたに警告しなかったとは言わないでくれ!いっしょに
行くというのなら、スウィーニーに戻ろう。
 
            1
 
 スウィーニーは、公園のベンチに座っていた。夏の夜で、隣にゴッド
がいた。ゴッドが好きな人は多くなかったが、スウィーニーは、ゴッド
が好きだった。ゴッドは、背が高く、やせた老人で、短いがからまった
ヒゲがあって、ニコチンで汚れていた。フルネームは、ゴッドフリー。
分かりやすくフルネームと言ったが、だれにも、スウィーニーにさえ、
それが、ファーストネームなのかラストネームなのか知らなかった。彼
は少し気がふれているが、さほどではない。天気が良ければ、シカゴの

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北側の、バグハウススクウェアと呼ばれるところに住んで、寝泊まりし
ている浮浪者の彼の年令であれば平均以上ではない。バグハウススクウ
ェアは、別の名前もあるが、もっと口に出せない名前だ。クラーク通り
とディアボーン通りのあいだで、ニューベリー図書館のちょうど南だっ
た。それらは、水平の位置関係だった。垂直に考えれば、そこは、天国
よりは、地獄にかなり近かった。つまり、街灯に照らされて明るいが、
ベンチに、一晩中座っている打ちひしがれた人々の影によって、どんよ
り暗かった。
 夏の夜の2時で、バグハウススクウェアは、静まりかえった。宣伝カ
ーが通り過ぎたところで、スクウェアの住人でない、宿無しの人々が横
になっていた。芝生の上や、ベンチに、人々が眠っていた。靴ひもは堅
く結ばれ、盗難の心配はなかった。ポケットからカネを盗まれる心配も
なかった。盗まれるカネは、もともとなかった。それが、そこで眠って
る理由だからだ。
「ゴッド」と、スウィーニー。「もう1本やりたい」彼のかんばしくな
いハットを、1インチ、かんばしくない頭の後ろにずらした。
「オレも」と、ゴッド。「そんなに悪くなかった」
「同じやつを、もう1本」と、スウィーニー。
 ゴッドは、ニヤリとして、言った。「ホントだ、スウィーニー。そう
思うだろ?」ポケットからしわくちゃのタバコの包みを出すと、1本を

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スウィーニーにあげ、もう1本は自分で火をつけた。
 スウィーニーは、煙を深く吸い込んだ。斜め横のベンチで眠ってる人
影を見て、それから、目を、クラーク通りの街灯の先に移した。目は、
煙を吸ったあとでぼんやりして、街灯に光の輪が見えた。しかし、そん
なものはないことを知っていた。風はなかった。暑く感じて、汗をかい
た。公園のように、町のように。ハットを取って、それであおいだ。4
分の3ガロン飲んだことで、そのハットを静かに見つめた。3週間前に
買った新しいハットだった。ブレード社でまだ働いていたときに買った。
今、それはなににも見えなかった。それは車にひかれて、泥だらけにな
ったように見えた。ただ置かれ、足で踏みつけられたように。
「ゴッド」と、彼。ゴッドフリーにしゃべってなかった。ほかのだれに
もしゃべってなかった。ハットを頭に戻した。
「眠りたい」と、彼。立ち上がった。「数ブロック歩いて来る。いっし
ょに来る?」
「ベンチがなくなっても?」ゴッドは知りたかった。「オレはもう眠る、
スウィーニー。また会おう」ゴッドは、ベンチの上に体を伸ばしてリラ
ックスして、曲げた腕に頭を休めた。
 スウィーニーは、「じゃあ」と言って、クラーク通りへ向かって歩い
て行った。少しよろめいたが、それほどでなかった。クラーク通りの南、
シカゴアベニューを過ぎて、夜道を歩いた。店を通り過ぎるとき、せめ

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て飲み代があればと思った。警官が彼の方に歩いて来て、言った。「ハ
イ、スウィーニー!」スウィーニーも言った。「ハイ、ピート!」その
まま、歩き続けた。ゴッドフリーの『ピート理論』を考えて、それは年
取った浮浪者の権利だと思った。それがすごく欲しければ、もらうこと
ができるという理論だ。ものすごく一杯が飲みたければ、ピートに言え
ば、50セントか1ドルでさえ、すぐもらうことができる。しかし、そ
れは明日以降にとっておこう。
 バイオリンのE線が、きつく張り過ぎてるように感じるが、まだいら
ない。チェッ!なぜ、ピートに言わなかった?1杯が欲しかった。ショ
ットで6杯、あるいは1パイントの半分、そのことが肩に重荷を背負わ
されたようで、眠くなった。最後に眠ったのはいつ?思い出そうとした
が、記憶は霧がかかったようだ。高架鉄道近くのヒューロンあたりだっ
た気がする。夜だった。きのうの夜なのか、おとといの夜なのか、その
また前の夜なのか?きのうは、なにをした?
 ヒューロンを過ぎて、エリーも過ぎた。ループ街まで歩いて行けば、
ブレード社から出てきた連中のなん人かが、ランドルフの店へ入ろうと
するだろう。そこで、いくらか借りられるかもしれない。彼がまだそこ
で働いていたら。今は、どのくらいたっている?ランドルフの店をのぞ
いても大丈夫?
 窓沿いに、鏡のように映った自分を見た。それほど悪い映りでなかっ

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た。ハットは形が崩れ、ネクタイはしてなかった。スーツは、だぶだぶ
で、自然に、しかし━━━そのとき、彼は数歩近づいて、そうあって欲
しくないものが映った。ほんとうの自分の姿。寝不足で充血した目、少
なくとも3日か4日は伸ばし放題のヒゲ、ひどく汚れたシャツのえり元。
それは、1週間前には真っ白なシャツだったのだ。そして、スーツには
シミがあった。
 乾燥した周りを見てから、また、歩き出した。この段階に来ては、ど
んなやつも下から見上げられなかった。酔っぱらった初期には、まだ、
大丈夫だった。たぶん、そのあとに、自分がどう見えるか気にしなくな
った。そして、今から数日前のような状態に、不可避的に、入り込んで
しまった。歩きながら、自分をのろい始めた。自分を憎み、すべてのもの、
すべての人間を、自分を憎むように、憎んだ。
 オンタリオ通りを渡って、夜を飛び越えた。歩きながら、大声でのろ
た。しかし、自分がなにをしているのかは気づかなかった。「偉大なス
ウィーニーが夜を飛び越えている」と考えた。そして、考えを視界の外
に投げようとしたが、投げられなかった。鏡を見るのは、最悪だった。
しかし、それよりも悪いことは、今、自分について考えていることで、
体がにおった。むっとするような汗のにおい。ずっと着ている服を替え
てなかった。いつから家主から、室の鍵を渡してもらえなくなった?オ
ハイオ通り。まずい、南へ向かうのはやめた方がいい。ループ街に行こ

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う!それで、東に向かった。どこへ行こうとしてる?なにが重要?たぶ
ん、疲れて眠くなるほど長く歩いていたらしい。スクウェアの近くで、
元気が出るまで眠れる場所を見つけた方がいい。
 うう、知り合いにカネを借りることなしに、酒を飲むためになにかし
よう。
 だれかが、彼に向かって、歩道を歩いてきた。明るいチェックのジャ
ケットを着たかわいい少年だった。スウィーニーは、こぶしを固めた。
やつを殴って、財布を奪って、路地に逃げ込めば、チャンスはあるので
は?しかし、前にしたことがない上、動作がのろ過ぎた。あまりにのろ
かった。やつは、歩道を大回りして、スウィーニーが決心する前に通り
過ぎてしまった。
 セダンがゆっくり通り過ぎた。それが覆面パトカーで、屈強な警官が
ふたり乗っているのが見えた。彼は逃げようとしていた狭い路地に向か
った。まっすぐ歩き、素面しらふを装った。まだ、自分をのろっていたので止め
た。気を引き締めてすぐに進んで、明日は飲まないでいようと思った。
覆面パトカーは、停まることなく通り過ぎた。
 ディアボーン通りのかどでためらい、ステート通りの北へ戻ることにし
た。そこから、つぎのブロックを東に向かった。路面電車が平らな車輪
で走って来て、世界の終わりのような音を立てた。空のタクシーが、ゆ
っくり南に向かって走って来た。一瞬、手を挙げて止めようと考えた。

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ランドルフに行って、運転手に待ってもらって、店に入って、知り合い
からいくらか借りて来る。しかし、手を挙げたところで、彼の身なりで
は止まってさえくれないだろう。結局、タクシーは通り過ぎて行った。
 ステート通りを、北に向かった。エリーを過ぎて、ヒューロンも過ぎ
た。気分が良くなってきた。すごくではないが、少し。スペリオル通り。
スペリオルって、とスウィーニーは考えた。スウィーニーが夜を飛び越
えて、時間も飛び越えた━━━
 
               ◇
 
 そのとき、まったく突然、4分の1ブロック先のアパートの入り口ド
アの周りに、人々が集まっているのに気づいた。
 人の数は多くはなかった。10人くらいで、すぐにだれか分かる人数
━━━最初に人々が集まっていたのは、北ステート通りで、朝の2時半
だった、立ってビルのガラス戸から玄関ホールの方を見ていた。どこか
ら聞こえるのか場所を特定できないが、おかしな音がしていた。動物の
うなり声のような。
 スウィーニーは、だんだんと歩くスピードが落ちた。たぶん、と彼は
考えた、飲んだせいで、落ちて、ゆっくりになって、意識が無くなって
倒れ、死ぬ━━━やがて救急車が来て、運ばれて行く。おそらく、血だ

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まりに倒れて。10人くらいの多くない人々に見られ、だんだん冷たく
なって行く。シカゴのある場所では、酔っぱらいによくあることだった。
血の考えは、スウィーニーの心をとらえなかった。新聞記者の取材助手
をしていたときは、血なんてよく見ていた。調律するように、警官が調
べた直後に、タウンゼンド通りの玉突き場へ入ったこともあった。そこ
では、4人が麻薬取引中に殺し合いをしたのだ━━━
 彼は、人々が立っている肩越しに見ることもなく、歩き始めた。通り
過ぎようとしたとき、3つのことが彼を立ち止まらせた。2つは音であ
り、3つ目は、静けさだった。
 静けさは、群衆の静けさだった━━━もしも、10人くらいを群衆と
呼べば、そして、ふたつづきのドアに2グループに分かれていても群衆
と呼ぶなら。音の1つは、1ブロック以内に近づいたパトカーのサイレ
ンだった。シカゴアベニューを北に向かって、ステート通りへ曲がろう
として速度をゆるめた。たぶん、とスウィーニーは考えた、ビルの玄関
ホールに死体があるのだろう。もしもそうなら、警官が来て、それは犯
罪シーンの冒頭としてはふさわしくない。警官はあんたをつかまえて質
問するだろう。追い払われないで、そこに立っていたら、移動しろと言
われて、移動する。もう1つの音は、最初から聞こえていた音の繰り返
し、今、はっきり聞こえて、群衆の静けさの上で、サイレンのもの悲し
い音の下に。それは、動物のうなり声だった。

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 それらすべての理由で、彼をとがめることはできない。すべての一部
だとしても。スウィーニーは振り返って、見た。もちろん、10人くら
いの人々の背中しか見えなかった。正面からの動物のうなり声とうしろ
からのもの悲しいサイレン以外なにも聞こえなかった。パトカーは、カ
ーブを曲がって来た。
 たぶん、それは車の音、たぶん、それは動物のうなり声、しかし、群
衆の半分の人々は、アパートのビルのふたつづきのドアから後戻りし始
めた。そして、スウィーニーはガラスのドアを見た。それを通して、中
の玄関ホールに電気はついてなかったので、はっきりはしなかった。中
を照らすものは、街灯の光しかなかった。
 最初に、イヌが見えた。イヌがガラスにもっとも近くにいたからだ。
外を見ていた。イヌ?イヌに違いなかった。ここはシカゴなので。もし
も森の中で見たら、オオカミと思うだろう、とりわけ大きくて、敵意の
ある目つきでこちらを見ている。ガラスドアから4フィート離れたとこ
ろで、しっかりと立っていた。首から背中の毛を立てて、口はうしろに
きつく閉じてうなり声を上げ、1インチにもなるきばを見せていた。目は、
黄色に光っていた。
 スウィーニーは、黄色の目と目が合って、少し身震いした。あからさ
まな黄の目の獰猛どうもうさが疲れてぼんやりした赤の目と合った。
 それが、ほとんど、彼の酔いを覚まさせた。そして、ぎこちなく、別

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の方を見させた。玄関ホールの横の床の上にあるなにか、イヌの少し後
ろに。カーペットの上で顔を下にした、女の姿だった。
 姿という言葉は、よくない。白の肩が、淡い光の中でさえ輝いて、ス
トラップなしの白のシルクのイブニングガウンが━━━女の顔が下向き
であっても━━━彼女の体形をなぞった。スウィーニーは、彼女を見て、
酒臭い息をのんだ。
 彼女の顔は見えなかった。内巻きショートヘアーのブロンド髪の頭が
上だった。しかし、美しいことは分かった。そうであれば、からだの美
しさと沿わないことはなかった。
 彼女が少し動いたように見えた。パトカーがカーブで停まると、イヌ
が、ふたたび、うなった。低音の声の上に高音のきいきい声のブレーキ
が聞こえた。振り返りもせず、スウィーニーは、車のドアが開いて、重
い足音がするのを聞いた。スウィーニーの肩に手を置いて、脇にどかし
た、それほど紳士的でなく、それから、ビジネスふうの声がした。「ど
うした?だれが電話した?」スウィーニーに向かってではなかったので、
答えず、振り向きもしなかった。
 だれも答えなかった。
 スウィーニーは、押されて動いたが、すぐにバランスを保った。まだ、
玄関ホールの方を見ていた。
 彼の横のブルー制服の男の手には、懐中電灯があり、スイッチを入れ

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ると、ガラスドアの先の玄関ホールを明るい白の光のビームで照らした。
イヌのどうもうな目の黄の輝きや、女のショートヘアーのブロンドの黄の輝
きをとらえた。彼女の肩の白のきらめきやドレスの白のきらめきもとら
えた。
 懐中電灯の男は、軽く口笛を吹くと、それ以上の質問はせず、前に出
て、ドアノブをつかんだ。
 イヌは、うなるのをやめて、跳び掛かろうと姿勢を低く構えた。静け
さは、うなり声よりもっと悪かった。ブルー制服の男は、ドアノブが熱
せられていたかのように、手を離した。
「最悪!」と、彼。片手をコートのえりの中に入れた。しかし、銃に手を
掛けなかった。その代わりに、人々の方を向いた。「なにがあった?電
話したのはだれ?あそこの女は病気?酔っぱらい?あるいは?」
 だれも答えなかった。「イヌは彼女の?」と、彼。
 だれも答えなかった。ブルー制服の横に、グレーのスーツの男がいた。
「落ち着け、デイブ!」と、グレースーツ。「だれも、必要なければ、
ポーチにいるものを撃ちたくない」
「オーケー」と、ブルー制服。「ドアをけて、イヌをかまって!その
あいだに、女を見る!イヌはいらない、オオカミ、それともデビル?」
「分かった」グレースーツは、ドアに手を掛けた。後ろに引くと、イヌ
は、また、姿勢を低くして、きばを見せた。

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 ブルー制服は、くすくす笑った。「電話は」と、彼。「どうだった?
あんたが取った」
「女が玄関ホールに倒れていると言っただけ。イヌのことは聞いてない。
北のかどの店から男が電話して来た。名前も言った」
「名前も言った」と、ブルー制服。あざ笑うように。「もしも女が酔っ
て倒れているだけと知っていたら、ポーチで気をつけるよう電話で伝え
ていた。そいつをうまく扱えるだろう。オレはイヌは好きだし、こいつ
を撃ちたくない。たぶん、女のイヌで、彼女を守ろうとしてるだけ」
「考えてくれ!」と、グレイスーツ。「やつは元気だ。オレもイヌは好
きだが、状況が悪いとのろいたくない。よし」
 グレイスーツは、スーツコートを脱ぎ始めた。「そう、いいか」と、
彼。「これを腕に巻いて、あんたがドアを開けて、イヌが跳びかかって
来たら、やつを台尻で押さえつけて」
「見て!女が動いている」
 女は動いていた。頭を上げた。両手を上に挙げようとした。スウィー
ニーは、彼女が肘の近くまで来る長い白の手袋をしていることに気づい
た。彼女は頭を挙げて、懐中電灯の光線が作る明るいスポットライトの
中で目を見開いていた。
 顔は美しかった。目がくらんで、なにも見えないようだった。
「完全に酔っている」と、ブルー制服。「見て、ハリー!あんたが銃の

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台尻でイヌを黙らせたら、そいつを殺すかもしれない。だれかが声を上
げるだろう。女は酔いがさめれば起き上がる。オレはここで待って、見
張ってるから、あんたは、署まで往復して、親切な連中をここに寄こす
よう言って、ネットでもなんでも使って」
 
               ◇
 
 そのとき、突然、人々が息を飲むようなことが起こって、ブルー制服
は、口を手で叩かれたように黙った。
「血だ!」と、だれか。やっと聞こえる声で。
 弱々しく、見られながら、女は起き上がろうとした。ヒザをついて、
腕を伸ばせるまで、からだを起こそうとした。脇にいたイヌは、すばや
く動き、口を彼女の顔に近づけると、ブルー制服は悪態をついて銃を肩
ショルダーから抜いた。しかし、発砲される前に、イヌはくんくん言い
ながら、女の顔を長い赤の舌でなめた。
 それから、ふたりの警官は、ドアに向かって、すばやく動いた。イヌ
は、ふたたび、低く構えてうなった。、
 しかし、女は、まだ、起き上がってなかった。みんなが血を見た。白
のイブニングドレスの上に、楕円形の血のシミが腹部まで広がっていた。
明るいスポットライトに照らされて、ステージ上の演技かテレビのホラ

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ーショーのスクリーンのようだった。5インチの長さに、腹部のシミを
中心に白のドレスが引き裂かれていた。
「ジーザス」と、グレースーツ。「ジャックナイフ、切り裂き魔だ!」
 ふたりの警官が、人々を押して近づいて来たとき、スウィーニーは、
別の方向に押して、人々の後ろに出て、肩越しに見た。できるだけ早く
ここを去るという考えを忘れていた。彼は、だれにも気づかれないで、
すぐにでも歩き出せた。しかし、そうしなかった。
 グレイスーツは、コートを半分着て、半分脱いだまま、続きをしない
で、こおり付いたように立っていた。コートを背中に掛けて、肩がスウィ
ーニーのアゴをこすった。
「電話だ!」と、グレースーツ。「救急車と殺人課、デイブ、イヌをな
んとかしよう」
 肩が、また、スウィーニーのアゴをこすって、肩ホルスターから銃を
抜いた。銃を手にして、声が急に小さくなった。「ドアノブに手を伸ば
せ、デイブ!イヌがあんたに跳び掛かろうとする。オレが正確に撃って、
やつをなんとかする」
 しかし、彼は、銃を構えなかった。デイブもドアノブに手を伸ばさな
かった。信じられないことが起きていたからだ。スウィーニーが決して
忘れることができないようなこと、15人か20人の人々が、玄関ホー
ルの前で、ずっと忘れることができないようなこと。

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 玄関ホールの女は、郵便受けやブザーボタンの列の脇で、片手を床に
ついた。立ち上がろうとして、上体を起こしたが、まだ、片ヒザをつい
て休んでいた。懐中電灯の明るい白の光が、彼女を、ステージ上のスポ
ットライトのように、ドレスと手袋と肌の白さと血の楕円形に広がる赤
とともに浮かび上がらせた。彼女は、まだ、目がくらんでいた。ショッ
クもあるに違いない、とスウィーニーは考えた、ナイフの傷は深くも致
命的でもない、さもなければ、出血はもっと、もっと多いだろう。彼女
は、目を閉じて、からだを揺らし、もう片方のヒザを立てて、まっすぐ
立ち上がった。
 そのとき、信じられないことが起きた。
 イヌは、後ずさりして、後ろから彼女に跳びついた。後ろ足で立って、
しかし、前足を彼女に掛けなかった。歯は、白のドレスの背中から、ス
トラップなしのイブニングガウン、なにかをくわえて、引っ張って、下
へ落した。そして、そのなにかは━━━あとで分かったのだが━━━長
いジッパーに付いていた白のシルクのタブだった。
 優雅に、ドレスは下に落ちて、足の周りに白のシルクの円を作った。
ドレスの下は、なにも着てなかった。まったく、なにも。
 数分にも思えたが、たぶん、10秒くらいだったのだろう、だれも動
かず、だれも身じろぎしなかった。なにも起こらなかった。ただ、ブル
ー制服の手の懐中電灯が少し震えただけだった。

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 そのとき、女のヒザが曲がり始めて、ゆっくり下へ降りた━━━落ち
たのではない、だれかが疲れ過ぎて、もう立っていられないかように、
沈み込んだ━━━今まで立っていた白のシルクの円の中心へ。
 それから、多くのことが一度に起こった。1つには、また、スウィー
ニーが息をした。ブルー制服は、慎重にイヌに銃を向けて、引き金を引
いた。イヌは倒れ、玄関ホールに横たわった。ブルー制服は、ドアを開
けて入り、肩越しにグレイスーツを呼んだ。「救急車を呼んで、ハリー!
それから、イヌの足を縛って!殺してはいない。ただ、動けなくしただ
け」
 
               ◇
 
 スウィーニーは、道を戻ったが、だれも注意を払わなかった。北へデ
ラウェアに向かって歩き、バグハウススクウェアの西へ戻った。
 ゴッドフリーは、ベンチにいなかったが、長くいなかったわけでなか
った。それは、ベンチが、まだ、空いていて、夏の夜には、ベンチが空
いたままなのは、長くなかったからだ。スウィーニーは、座って、ゴッ
ドが戻るのを待った。
「ハイ、スウィーニー」と、ゴッド。隣りに座った。「パイント瓶が手
に入った!一杯やる?」

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 バカげた質問だった。スウィーニーは、答える手間を掛けなかった。
手を差し出した。ゴッドも答えを期待してなかった。ボトルを渡した。
スウィーニーの一口は、長かった。
「サンクス」と、彼。「聞いて!彼女は美しかった、ゴッド!彼女はも
っとも美しい女だった━━━」もう一口、短めにやると、ボトルを返し
た。「やりたいことが見つかった」
「だれ?」と、ゴッド。
「女。ステート通りを北に歩いていたら」説明できないことに気づいて、
しゃべるのをやめた。「忘れて!酒はどこで?」
「2ブロック行ったところでもらった」と、ゴッド。ため息をついた。
「ものすごく酒が飲みたくなったら、手に入るって、前に言っただろ?
そんなに欲しくなったことはなかった。もしもどうしても欲しくなった
ら、手に入る」
「ありえない!」スウィーニーは、条件反射で言った。それから、突然、
笑い出した。
「欲しいものはなんでも」と、ゴッド。独断的に。「世界中で、もっと
もやさしいこと、スウィーニー!金持ちにだってなれる!世界中で、も
っともやさしいこと!だれでも、金持ちになれる。みんながやってるこ
とは、カネが欲しいから、つまり、なににも増して欲しいから。カネに
集中すれば、手に入る。ほかのものはそれほど欲しくなければ、手に入

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らない」
 スウィーニーは、声に出さずに笑った。今、気分が良くなった。長く
ごくごく飲むことが、ただ必要だったのだ。もっとも好きなことで、老
人を困らせてやろうと考えた。
「女はどう?」と、彼。
「どういう意味?」ゴッドの目は、少し霧が掛かったように見えた。か
なり酔って来た。ボストンなまりが混じって来た。ほんとうに酔ったとき
のように。「ほんとうに望む特別な女に会ったと?」
「イェ〜」と、スウィーニー。「たとえば、特別な女がいたと仮定しよ
う。いっしょに夜を過ごしたい。できる?」
「すごくそう望めば、もちろん、できるよ、スウィーニー!精神を集中
させ、直接的にも、間接的にも、1つのことに、真剣に集中させれば。
なぜだめ?」
 スウィーニーは、また、笑った。
 頭を後ろに傾けて、木々の暗い緑の葉を見た。笑いが声を出さない笑
いになって、ハットを取って、それで自分をあおいだ。それから、ハット
を、今まで見たこともないように見て、それから、慎重にコートのえり
埃をほこり払い、もっとずっと、ハットらしく見えるように形を整えた。子ど
もが針をおそれるように、夢中になってその作業をした。
 ゴッドは、2度、いた。バカげた質問ではなかった。ゴッドは答え

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を期待してなかった。彼は、ボトルを差し出した。
 スウィーニーは、受け取らなかった。ハットをかぶり直すと、立ち上
がった。ゴッドにウィンクして、言った。「ノーサンクス、ゴッド!こ
れから、デートがある」






 
            2
 
 夜明けは、別だった。夜明けは、いつも、別だった。
 スウィーニーは、目を覚ますと、夜明けだった。暑く、グレーで、ま
だ、夜明け。木々から葉が頭の上に、意味もなく、落ちて来た。地面は、
体の下で、固かった。からだじゅうが痛かった。口の中が、なにか、説
明できないもので、固まっているように感じた。説明できないもの、つ
まり、スウィーニーには。
 

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                            (つづく)


















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