ダンシングサンドの場合
          原作:フレドリックブラウン
          アランフィールド
           
            プロローグ
             
 その夜は、ほかの夜と同じだった━━━真夜中まで、ドリンクがこそ
こそ彼をいまわり始めた。カールディクソンも、ほかの男と同じで、
数日、町を離れているフィアンセがいることを忘れ始めた。そして、ダ
ンスしてるときドロシーを少しきつく抱き始めた。
 彼女の手を握ると、握り返された。彼女は顔を向けて彼を見た。顔は
わずか数インチのところにあった。彼女は、ナイトクラブの煙に満ちた
薄闇でもきれいだった。からだもきれいだった、あまりに近くにあった
ので、見れなかった。
 




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            登場人物
             
カールディクソン:会計士
スーザンディクソン:カールの妻。
ドロシートレメイン:女、香水は『愛の夜』
ビックトレメイン(ジェリートレムホルム):ドロシーの兄。
リチャードアンシン(トムアンダーズ、ディック):ビックの相棒。



        1 からだもきれい
 
 彼女は、頭のうしろを彼の肩に乗せた。また、香水の強い匂いがした。
いい匂いだった。逆に、スーザンのことを思い出した。スーザンは、香
水をつけて外出することはなかった。自分が香水の匂いが好きなことに
気づいた。スーザンに香水をつけさせるかもしれない。もしもなにか買
ってもらったら、つけてくれるだろう。
「ドロシー」と、彼。「なぁに、カール?」と、肩の声。
「香水は、なんていう?いい匂いだ」
 彼女は、また、頭を彼の肩から上げた。顔は、また、わずか数インチ。

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「なぜ、知りたいの?」彼女は、笑った。
「ただの好奇心、シークレット?」
「シークレット?それは持ってない。これは、『愛の夜』」
 彼女の黒の目は笑い、真っ赤な誘惑的な唇くちびるも笑った。しかし、1秒だ
け、1秒はときとして、長くなり得る、目には、笑いではないなにかが
あった。それから、また、もとの顔に戻った。
 そのショックで、彼はステップを間違えた。彼女が『愛の夜』と言っ
た仕草、こちらを見る動作、フランス語をよく知らなくても、愛の夜ぐ
らい分かった。女に関してもよく知らなくても、彼女の視線を愛の夜の
約束、望んだとおりの今夜と翻訳できた。
 それが、カールディクソンの酔いをほとんど覚まさせた。多くの疑問
が湧いて、実務的、道徳的に、彼の鋭い会計士の心の返答を待った。彼
には、スーザンがいて、熱烈でも情熱的でもないが、親愛を込めて考え
た。来年の春に結婚する。いっしょにいて幸せだった。リスクを犯す価
値はある?たとえ、どんなにわずかなリスクだとしても?彼の一部は、
ノーと言い、一部は、イエスと言った。心は揺れ動き、バランスは、リ
スクが無視できるほど小さいか、かなり大きいかに依存した。
 彼女の兄は、どうなんだ?と、彼は考えた。兄を考えに入れてない?
答えがあるに違いない。そうでなければ、なぜ呼んだ?
 彼がスキャンダルのリスクなら、兄の仕事は?

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 ダンスは終わり、クラリネットが小さく「それですべて」を演奏して、
セッションの終わりを告げた。カールディクソンは、兄の待つテーブル
に戻るドロシーの後について行った。3歩後ろを歩きながら、彼女の白
い肩や白い背中、なめらかな黒髪(スーザンの髪は、ただのブラウン)
それに、肩や背中と同じにすべすべしたヒップや太腿をおおっている、サ
テンのなめらかな黒から目を離せなかった。
 ビックトレメインは、カールディクソンが唯一好きになれない金歯を
見せて、ふたりにニヤリとした。
「ハイ、キッズ、行ってるあいだに、あんたたちのドリンクも新しくし
ておいた」
 カールは、ドロシーのイスを引いてあげて、自分のイスにつくと、疑
問に思いながらふさぎこんで酒をすすった。
 1つには、このふたりは知り合ったばかりで、ビックが話してくれた
こと以外、ほんとうのことはなにも知らなかった。ビックトレメインと
は、2週間前に、バーでまったく偶然会った。隣の場所に立っていて、
どちらが先に話し掛けたのか覚えてない。話し掛けたのは、むしろ自分
だと思った。ビックに試合について訊いたのだ。それから、ふたりで話
していて、お互いに気が合った。
 しかし、どちらも、知り合いになろうとはしなかった。3日前に、ビ
ックにまた会った。このときは、通りで。いっしょに、ランチを食べた。

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このランチのときに、お互いに住所を交換し、ビックは、マンハッタン
に来たばかりで、知り合いも少ない。カールがヒマなときに、時々電話
してもかまわないか?と訊いた。ビックは、それから、自分のことを少
し話した。彼は、シカゴ近くの街道沿いで酒場を経営していたが、不便
なので売り払い、ニューヨークに来た。今、ニューヨーク近くに店を捜
していて、ロングアイランドが好ましいが、ジャージーでもいい。静か
で小さな店で、フロアショーのような大きくて豪華である必要はない、
ただ、歌えてうまいピアニストがいて、ダンスのときは、バンドと交代
するような。
 ビックは、リチャードアンシンという男とパートナーシップを結ぶつ
もりだ━━━アンシンとは長年の知り合いだった。いろいろな企業の株
をいっしょに保有していた。アンシンは、いいやつだ。カールは彼が好
きになるだろう。カールはまたビックの妹ドロシーも好きになるだろう。
彼女は、最近、ニューヨークに来て、彼の仲間に加わった。
 そして、今夜、仕事を終えて家に帰ったときだった。ビックが電話し
て来て、祝い事が2つあると言った。1つは、ドロシーが町に到着した
こと。もう1つは、アンシンが、ジャージーに小さな店を見つけてくれ
たこと、すでに、そこを購入した。売ってくれた男は、すぐに引き渡し
てくれた。
 カールも、オレとドロシーといっしょにディナーに来ないか?

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 カールディクソンは、最初、気が進まなかったが、長くは反対しなか
った。スーザンが町を離れて、フィラデルフィアの両親の家に行ってる
こともあって、少し、寂しかった。金曜の夜だったので、つぎの日、仕
事に行かなくてもよかった。金歯にも関わらず、ビックが好きだった。
電話では、ビックは、今日は彼のお祝いで、カールは財布を持ってこな
くていいと言った。そう、それは、断るのが難しい招待だった。
 そのとき以来、今まで、招待を受けて良かったと思った。ドロシート
レメインは、ノックアウト級の美人だと分かった。みんな、アスターの
混んだバーカウンターで、コックテイルを、なん杯か、飲んでいた。リ
ンディーの店でディナーをとる前だったが、カールはやわらかい楽し気
な輝きを感じた。ドロシーは、ニューヨークにいるあいだに一度もリン
ディーの店には行ったことがなく、そこでセレブを見るのが楽しみだと
言った。それで、みんなでリンディーの店に行って、(カールも一度も
行ったことがなかったことは言わなかった)すばらしいディナーをとっ
たが、セレブにはひとりも会えなかった。あるいは、セレブだと分かっ
たものはいなかった。
 ビックの車に乗り込んだのは、ほとんど10時近かった。3人とも前
のシートに座ったので、カールは左手をバックシートに伸ばして、すき
間を作らなければならなかった。ドロシーは、とてもソフトで温かく、
最初、近くであの香水の匂いが強くした。

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 それは、マティーニよりもっと人を酔わせた。酔わせ方は、もちろん、
同じではなかった。
 ドロシーは、ずっとしゃべり続け、女のするように、彼もいっしょに
しゃべらせようとしたので、オランダトンネルを過ぎてから、どこへ、
どの方向へ向かっているのかまったく分からなかった。そのトンネルの
ことは覚えていた。なぜなら、すごく長いトンネルで、車がそのまま潜
水艦になって、川の下へ潜って行けたらなんてすばらしい!とドロシー
が言ったからだ。
 とにかく、彼は、ジャージーは知らなかった。いくつかの町を通り過
ぎた。ジャージーシティ、ホーボーケン、ウィホーケンかもしれなかっ
た。あるいは、ジャージーシティ、ニューワーク、エリザベスかもしれ
なかった。あるいは、あんたの好きな組み合わせ。
 ついに、ビックは、明るく街灯に照らされた店の脇の駐車場に車を停
めた。ドロシーは、必死に訊いた。「ここがそう、ビック?」
 ビックは笑って、「違う」と言った。彼の店は、この近くではなく、
今は、もう少しここでリラックスする。
「まだ、早い」と、彼。「11時を過ぎたばかり。ダンスがしたいと言
ったから、1時間くらいここで過ごして、2・3杯飲んだり、あんたと
カールは、また、ダンスができる」
 ドロシーは、それはいいアイデアと言って、車を降りるときに笑って

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カールに言った。「また、わたしとダンスすることになる。ビックは踊
らない。彼が言うには、妹とのダンスは不謹慎だそうよ」
 カールも笑ったが、内心では、ショックを受けた。スーザンなら、そ
ういうことは言わない、別のことにたとえるなりして。しかし、ドロシ
ーは、スーザンのようなふつうの娘と比べて、少し直接的すぎるところ
があった。
 今は、深夜で、あとで、なん回かダンスして、なん杯か飲んで、それ
以上は、もう飲めず、いっしょに来なければよかったと後悔しそうだっ
た。少し酔っていたが、問題があれば認識できた。
 そう、すぐには決心できなかった。ビックとドロシーは、新しい店の
ことを話していた。カールも、なにか言うべきと思った。
「店の名前は、ビック?」と、彼。
「アンシン&ビックにしようと思う」と、ビック。「もっと覚えやすそ
うなファンタスティックなものもあるが、ディックはラストネームが使
いたく、オレはファーストネームがよくて、こうなった。どう?」
「響きがいい」
「ディック&ビックは、おかしい!」と、ドロシー。「アンシン&トレ
メインは、もっとおかしい。うう、どんなのがいい、カール?」
「うぬぼれすぎ、たぶん?」
 彼女は、彼の手を叩いた。そのとき、そのまま手を上に乗せていた。

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 ビックは、腕時計を見て、言った。「一杯づつ飲んだら、そこへ行こ
う!」
「たぶん」と、カール。「オレは、その一杯をパスした方がいい」
 ビックは、彼に笑って、3杯注文した。カールは女々め めしく思われたく
なかったので、自分の分を飲んだが、そうすべきでなかった。酔ってな
いように見せるのに、ずいぶん苦労した。とにかく、バレないようにす
るのがやっとだった。
 彼は、まだ、ビックが新しい店のサイズの説明をしているのが理解で
きた。「追加のバーカウンターを増設していて、今はまだ、その3分の
2くらいの広さだ」と、ビック。「今は、バーカウンターが中央で、ダ
ンスフロアとテーブル席がある。ダンスフロアは、とても狭く、バンド
の音楽はひどい。今のバンドとの契約は、10日くらいのうちにやめる。
とにかくそれが、あんたたちを、ここでダンスさせた理由だ。そこは、
貧乏バンドで、ひどいフロアなので」
 ビックは、アスターやリンディーでしたのと同じに、ここでも清算し
てくれた。カールは声に出して反対もしなかった。少なくとも、ビック
は、今夜はカールのためにと言ったのは、誇張でもなんでもなかった。
 みんなはビックの車に戻り、もう少しドライブした。このときは、カ
ールは、北に向かってるのか、南か、西か分からなかった。上っている
のか下っているのか。もう、簿記バランスはなかったが、左腕はバック

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シートに伸ばして、ドロシーの肩に場所をあげた。彼女は、気持ちよく
寄り添い、ふたたび、『愛の夜』が彼の鼻孔と心を、マルチに刺激した。
 車は速度を落とし、ビックはうれしそうに言った。「おお、ネオンサ
インがもう輝いている!早くても、明日までできないと思っていた。見
て!」カールは、窓の外を見ると、街道沿いに、明るく照らされた小さ
な酒場が見えた。ちょうどよいサイズの赤のネオンサインが大きく『ア
ンシン&ビック』と輝いていた。ビックは、店の前のドライブウェイに
後ろ向きに車を停めた。
 脇のドアから中へ入ると、広くはないが、ステキな店だった。12の
ブーステーブルがあって、バーカウンターも数人座れた。ダンスフロア
は、ビックが言った通り狭く、バンドは2つに分かれていた。中央のド
ラムスの席にだれもいなかったからだ。しかし、アコーディオンとサッ
クスは、かなりな音量だった。
 ビックは、全体を見渡して、うんざりしたようにクビを振った。「ビ
ジネスは、地に落ちた」と、彼。「うう、できるだけ、作り替えよう。
あんたたちは、ブース席に座って!オレは、ディックと話して来る」
 彼は、カウンターの方へ行き、バーテンダーとなにか話し、ドロシー
は、ブース席に滑り込んだ。オレは、彼女の横に座った。彼は、今では、
かなり不安定な気分で、目の焦点を合わせるのに苦労した。しかし、彼
は、楽しいときを過ごしていると自分に言い聞かせた。

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        2 すぐに100ドル紙幣
 
 ほかの仕事と同じようなものだったが、トムアンダーズは、それが好
きになれなかった。なにかたいへんなことがあったわけではない。カモ
のスープを出せば、すぐに100ドル紙幣になった。100ドル紙幣が
必要だった。その上、ジェリートレムホルムは、すべてがスムーズに行
けば、さらなる100ドル紙幣を彼に約束した。
 
 
 
                            (つづく)










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