おぼろ月夜に死ね
原作:フレドリックブラウン
アランフィールド
プロローグ
ピートホルムは、長い間、波止場の海を見つめていた。そこから沖に
向かって、コッド岬の銀色のまざった海が、信じ難い虹色の月を映して
いた。あれは、と彼は考えた、キャンバスには描けない、冷たくて火の
ように燃える絵の具がない限り、
刷毛で描いた瞬間に凍る、あるいは、
燃えてキャンバスにいぶった穴をあけるような絵の具がない限り。プロ
ビンスタウンの月は、この世のものと思えない夕陽やランドマクナリー
ブルーの岬の海とともに、毎年夏になると、大陸じゅうからやって来る
画家たちに競って描かせた。
1
ピートホルムは、なにかつぶやくと、波止場に積んであるガラクタを
蹴っ飛ばしてから、コマーシャル通りへ向かった。コロニーハウスとネ
プチューンを通り過ぎて、ホワイトハウスバーへ入った。ショーティウ
ェルマンは、白のエプロンをしたビア樽そっくりのかっこうで言った。
「ハイ、ピート!ハウィッツ?」
「いいね」ピートホルムは、スツールに掛けた。
ショーティは、すでにエールビールを注いでいた、注文を待たずに。
それをカウンターの上に置くと、バーの別の端に立っている男の方を向
いた。ピートホルムは、そのときその男に気づいた。
どこか別の場所だったら、男の派手な遊び人ふうのベレー帽や、もっ
と遊び人ふうの口ひげや派手な色彩のブレザーコートは目立っただろう
が、ここでは珍しくなかった。プロビンスタウンでは、シーズン中は、
通りはベレー帽ばかりで、最盛期でないとしても、今もまだシーズン中
だった。しかし、ホルムにとっては、男の鼻が、とても気になった。
彼は、その鼻が気にくわなかった、おそらく、その鼻をしてる男も。
長く薄く、青白い鼻だった。ほとんど透明の青白さで、皮膚の下の血管
に血が流れてないかのように、かなり青みを帯びた肌だった。そして、
片刃刀のようにカーブしていた。
その男は、彼を見て、その鼻と遊び人ふうの口ひげの下に、こわばっ
た笑いを浮かべた。
「ハロー」と、その男。
ホルムはうなづいた。できればそいつとはしゃべりたくなかった、と
いうのは、今は、おとなしくしなければならず、プロビンスタウンでは、
シーズン中は、だれにでも親切にして、どんな話題でも仲間のようにし
ゃべることが義務付けられていたからだ。それが伝統で、たとえ、脳み
そを叩き割りたいやつでも、そうできなかった。
それで、彼は言った。「美しい夜」
男は、ドリンクをカウンターですべらせて、ホルムとふつうにしゃべ
れる距離まで近づいた。
「画学生?」と、男。
「ああ」と、ピートホルム。エールをごくごく飲んだ。男の推理が当た
っていたことが少ししゃくだった。それは、ホルムは、コロニーからの
移住者に見られるような服装はしていないことが誇りだったからだ。そ
んなベレー帽を、ホルムは、死んでもかぶりたくなかった。そんなブレ
ザーコートも。
「ここが気に入ってる?」
「まぁまぁ」と、ホルム。そいつが黙ってくれることを祈った。
おかしなことは、自分でもしゃべりたい気がしたことだ。むしろ、だ
れかの肩にもたれて泣きたかった。というのは、数日前、ニューヨーク
で、オフィスの仕事を辞めて来た。完全に道を間違えていた。ニューヨ
ークのやつらが、プロビンスタウンに来ていた。
グラスに、もう一杯注がれたことに気づいた、片刃刀男の指示で。気
づいていれば、行くところがあると言って、断って、店を出て行くとこ
ろだったが、もう遅かった。
「サンクス」と、彼。なにか言わないと悪いので訊いた。「あんたも画
家?」
不快な鼻の上の目に、驚きのきらめきがあった。男は、首を振った。
「彫刻家」
「へぇ」と、ホルム。「のみ使いってこと?」
グラスをカウンターに置くと、顔を向けて、ニヤリとした。
それは、もちろん、古いギャグだった。彫刻家は、かつては、のみを
使っていた。最近では使わないとしても。しかし、顔を向ける前から、
ピートホルムには、悪気はなかった。電気的な緊張が走った。顔を向け
たとき、ニヤケはホルムの顔にまだあった。しかしそれは、ニヤケをや
める間がなかっただけだった。
片刃刀男は、動かなかった。しかし、彼の目は変わっていた。突然、
ボールベアリングのように友好的になって、ソフトになった。彼はなに
か言おうとした、「あんたが━━━」
と同時に、ピートホルムは右手を引いて、指は握ったまま、左手を上
げ始めた。
しかし、ショーティはそこにいて、バーカウンターの向こう側で、タ
オルでカウンターの上を拭いていた。突然、タオルがホルムのエールの
グラスの上にかぶさった。グラスは倒れ、割れなかったが、中のエール
がピートにかかった。コールテンのジャケットの前と右手こぶしにかか
って、カウンターの上に広がった。右手を無意識に引いて、こぶしを開
いた。
ショーティは、カウンターを回って来た。
「大丈夫、ピート!」と、彼。「悪い、しみ込む前にジャケットを脱い
で!タオルで手を拭いて!」
彼は、ピートと片刃刀男のあいだにいた、見たところ無意識に。緊張
は、始まったと同じに急速に消えつつあった。ショーティは、太ってい
る分、冷静でいられた。
ホルムが濡れたジャケットを脱ぐのを手伝った。
拍子抜けのあと、間があった。薄い鼻の男は、それを感じたに違いな
い。自分のドリンクを飲み干すと、出て行った。ピートホルムは、正面
の窓枠を通して、目で追った。彼は、通りを渡った。
「あんたは、アホか」と、ショーティ。「やつをからかったら、撃たれ
ていたかもしれない。銃を持っていた。ジャケットはクリーニングに出
そう!やつがカウンターに寄り掛かったとき、銃が見えた。脇のホルス
ターに」
「そう、やつは彫刻家なんかじゃない」と、ホルム。「古いギャグも知
らなかった。間に合わなかったら、しかし、なぜ━━━」
ショーティは、カウンターの向こうに戻った。
「スノーさ」と、彼。「前に見たことある、多くはないが、ここまでや
って来た。銃に弾を込めてあってすばしっこい、中西部のアクセント。
つまり、シカゴのギャングさ」
「もっと乾いたタオルをくれ!」と、ホルム。「手が、まだ、ねばねば
する。やつは外でだれかと会った。通りを渡って行った。もし━━━」
「もっと飲んで、忘れろ!」と、ショーティ。「あんたはここに長くい
る、あんたの叔父さんのジャックのように。ふつうの夜と変わらないさ、
ずっと。彼が歩けるうちに、帰らせた。彼が死んだら、あんたは金持ち
だ、それまで生きていれば。彼はそう言った」
ショーティは、ニヤリとした。ホルムも、ニヤリを返した。
「月影難破船強盗団?」と、ホルム。「週に1回、だいたい、20年間
ずっと、今もやってる?今度の収穫は?いつものように、宝箱いっぱい
の真珠?」
「ずっとそのへんは、彼はあいまいにしていた」と、ショーティ。「つ
いに、折れて、金の延べ棒だと認めた。やつらが、彼を狙っているとし
たら、ピート?」
ピートホルムは、頭を振った。「そのことで警察とも話しをした、シ
ョーティ。最後には、警察は、彼が前より裕福なことを認めた。いつか、
彼が飲み過ぎて騒いで、悪い結果にならなけりゃいいが。しかし、彼も、
もう81だ、先は長くない」
ショーティは、うなづいた。「もしも施設に入ったら、すぐに死んで
しまう。彼は、そういう人間だ。長生きさせるには、自分の住みかで自
分の殻でハッピーにさせるしかない、そう、いつか、しかしなんだって、
そんなことを?ピート、あんたは去る気だって、だれかが言っていた」
「エールのお代わり、ショーティ!」と、ホルム。「ああ、オレはニュ
ーヨークで仕事するつもり。いい機会だ」
「あんたは画家でやってくつもり?いい画家になれると思う。シーズン
中だけここに来る、マイクアンジェロみたいな、地方出身のひとりに」
「オレは━━━」ピートホルムは、しゃべり始めた。そのことを、しゃ
べりたかったことに気づいた。ショーティだけではなく。「うう、オレ
は、たぶん、画家としてそこまではなれないと思う」
「どこに住むつもり?」
「それは、パスだ、ショーティ。それについては、しゃべりたくない」
彼は、時計を見上げた。「もう、行かないと!エレンが、12時に仕事
が終わる。そしたら━━━」立ち上がり、ドアに向かおうとした。
「おう」と、ショーティ。その一言に、世界の賛辞を込めようとした。
「そいつは、すばらしい━━━」
2
ホルムは、残りを聞いてなかった。歩道に出ると、急ぎ足で歩いた。
ショーティの店の窓が見えなくなると、歩くスピードをゆるめた。そこ
へ行くまでに、時間はたっぷりあった。ショーティにしゃべろうとして、
あるいは、ほかのだれであれ、しゃべろうとしてやめたことを正当化す
る気はなかった。
彼がオールナイトレストランに着いたとき、エレンは、エプロンを脱
いだ。彼女は、そこで真夜中までウェイトレスの仕事をしていた。彼女
は、彼に微笑んだ。
「叔父さんが、今夜来たわ」と、彼女。「彼は━━━」
「ああ」と、ホルム。「知っている」
ぶっきらぼうなしゃべり方をしたことに気づいて、続けるとき、声を
悔い改めた。
「済まない、ディア、噛みつくつもりはなかった、少し勝手すぎた、疲
れた?」
「ええ、でも歩くのはいい。海辺の砂浜まで、歩きたい」
彼は、彼女の腕を組んだ。
「いいね」と、彼。「土曜の前に、いろいろプランがある。月を見に行
こう!やりたいことは━━━」
「なに?」
彼は、笑った。「なにも、エレン。世界中の欲しいものすべてを手に
入れたら、あるいは、1か月中に、手紙を書く」
ふたりは、ブラッドフォード通りを渡り、海辺の砂浜と岬まで2マイ
ルを結ぶ散歩道へ向かった。
歩いているあいだ、時々、どちらともなくなにかをしゃべり掛けよう
とするが、ほとんどなにもしゃべらなかった。海辺の砂浜の近くまで来
た。遠くで、波の砕ける音がかすかにした。
「彼女は、心になにかある」と、ホルムは考えた。「海辺に着いたら、
訊いてみよう」
しかし、待つ必要はなかった。突然、沈黙を破って、彼女が言った。
「ピート、それはできない。心が変わった」
彼は立ち止まり、彼女の方を向いた。
「エレン」と、彼。「できないって━━━」
そのとき、彼女の目に涙が見えた。彼は意味を理解して、笑い掛けた。
「ああ、分かる。あんたは、オレにその仕事をするキャリアがあるかど
うか考えてる。あんたは賢い。聞いて!かわいいまぬけ、ニューヨーク
には絵画クラスがある、夜間の。結婚して、落ち着いたら、すぐに」
「いいえ」涙を溜めていても、彼女の頬はしっかりしていた。「あなた
は、もうここで、ほんとうのスタートを切っている。そして、所属はこ
こ、ニューヨークじゃない、帳簿もつけてる。ニューヨークなら、なに
か仕事があるかもしれないけど、ピート、しばらくしたら、わたしを嫌
いになる」
「なんてバカなことを!いいかい、エレン、オレたちはここではやって
行けない」そのとき、しっかりとはしていたが、確信は完全にはなかっ
た。「貧乏に疲れた、1年に数枚しか売れない絵を、しかも数ドルで、
1ペニーさえも削る生活に。あんただって、向こうなら、仕事はいくら
でも」
「すべてそう望んでるだけ、あなたも気づいてる。結婚したらうれしい
し、向こうで、それまで仕事があれば」
「それまでって、いつまで?たぶん、数年、それだけ」
「数年じゃなく、1年か、2年。そのあとは、あなたはオフィスで働い
ていたときよりもっと稼いでくる。ドラビンスキーが言っていた」
「ドラビンスキー?」ホルムは、今度はほんとうに怒った。「どこでそ
んなことを?ちょっと待って!うすらまぬけのイーゼルを毛布でくるん
でやるまで」
「ピート!」彼女は、腕を彼の手に置いた。「海岸に着くまで黙って!
そうすれば、あなたは落ち着く。ちゃんとした話しができる。いい?」
「うう、分かった」
3
いっしょに歩きながら、彼女を見た。小さくて、繊細で、傷つきやす
そうに見えた。しかし、彼女は一度決心したことに関しては、どんなに
頑固か彼は知っていた。しかし、なん年も待つなんてことはできない。
特にエレンにとっては、今の仕事は少しハードだった。
そのとき、砂浜へカーブしている道を歩いていて、死体が見えた。十
数歩、先だった。
「なんてこと!」と、ホルム。暗いムードから、はっとした。「ジャッ
ク叔父さんのように見える。彼は、今夜、いろんなところに出歩いてい
た。なんとかしないと」
ふたりは、よく見るために近づいた。明るい月の光で、頭のあるあた
りに血のプールができていた。エレンが息を飲むのが聞こえた。落ち着
かせるために腕で彼女を支えた。しかし、彼女はまっすぐ立っていて、
落ち着いていた。
「ピート」と、彼女。「彼は━━━殺されている!」
「いや、彼は━━━」
途中で言い淀んだ。彼女が正しいことは、あまりに明らかだった。な
にかから落ちて頭を打つようなところは、近くにはどこにもなかった。
落ちて死ぬほど頭を打つことは、あり得なかった。
「見ないで、エレン」と、ホルム。「オレが見て来る」
しかし、彼には分っていた、冷たくなったからだに手を置く前から、
ジャックホルムが死んでいることは。
ピートホルムは、ゆっくり立ち上がった。
「そう、エレン」と、彼。「これは━━━殺人だ。なぜかは分かる。見
知らぬだれかが、今夜、彼がいつも見つけたと言ってる宝箱の話をして
いるのを聞いたのだ。エレン、戻って、警察に電話してくる?オレはこ
れから━━━」
「ピート、その前に伝えたいことがある。彼は━━━叔父さんは、今夜、
レストランに来た。天気のせいで、彼は子どもっぽかった。あなたに伝
えてくれって言っていた、ほんとうにそれを見つけたんだって。あした、
あなたに来て欲しいと」
彼は、頭をゆっくり振った。「それは、彼がいつも言ってることだ。
ただ話をしているだけさ、ハニー。自然に、自分のまぼろしを信じてる。
聞いて!オレは、急いで、彼の家にだれかいないか見に行く、周りを警
戒して。あんたは、町に戻って、警察に」
「しかし、ピート、犯人は複数かもしれない、ひとりだとしても、銃を
持っているかも!」
「オレは、犯人を捕まえる気はない、複数でも。うしろに隠れていて、
ハニー、犯人がどの方向へ逃げたか見るだけ。さぁ、急いで!」彼女の
肩をやさしく叩いて、体を向かせた。
彼女がはっと息を飲むのを聞いて、ピートホルムもそちらを向くと、
あの薄い鼻をした男が歩いて来るのが見えた。ベレー帽をかぶり、プレ
ザーコートを着て、オートマティックを手にしていた。
「ヘイ、バルディ、来い!」と、彼。「ただのガキと少女だ」
「分かった、すぐ行く」背後から、声がした。
エレンは、怖ってるように見えなかった。「あなたが殺した━━━」
彼女はカッカし始めた。
片刃刀男は、ニヤリとした。「ああ、ギャルちゃん」と、彼。さえぎ
った。「あんたとボーイフレンドは、やつと知り合い?」
ピートホルムは、ひじで軽くつっついた。その前に、彼女は言った。
「ええ、知ってる」そして、黙った。
「いいね」と、銃の男。「それなら、どちらかは、やつの家を知ってる
わけだ。バルディ、死体を砂山のうしろに隠して、血溜まりに砂を掛け
ておけ!」
「オーケー、ボス」と、背後の声。
「いっしょに来てもらおう」と、片刃刀男。「老人は抵抗したので、強
く殴らなければならなかった。やつは、オレたちを案内したくなかった」
冷たく笑った。
ピートは、エレンがしゃべらないように、彼女の腕を抑えていた。彼
は声をフラットに無表情にした。
「彼の家まで案内する」と、彼。「しかし、彼の家にはなにもない。あ
んたたちは間違ってる。彼は子どもっぽくて、今夜のように、いつもし
ゃべっているだけ」
片刃刀男は、ニヤリとした。「それは、行けば分かる」
「1つだけ」と、ピートホルム。「先に訊くが、オレたちはどうなる?
ウソではなく、あんたの顔は覚えてない」
「そう━━━」片刃刀男は、ためらった。「家の中で縛り付けておく。
逃げるのに数時間、その間、見つからなけりゃいい」
「数週間、見つからないかもしれない」
「すべて片づけた、ボス」と、背後の声。「跡は残ってない」
「行け!」と、銃の男。ホルムに。
「数日かもしれない」と、ピートホルム。抵抗した。「だれかが家に来
るまで。あるいは数週間かもしれない」
カチャという音が答えだった。オートマティックの安全装置が外され
た。
「バカなことしないで、ピート」と、エレン。それから、男に。「案内
する」
4
彼女は、もちろん、正しく、ホルムは、うなづいた。やつらに撃たせ
ても、なにもいいことはない。砂浜のあいだの小さな一軒家に向かいな
がら、やつらは約束を守ってくれるのかと疑問に思った。
ひとりを殺したら、犯行を知ってる者も生かしておかない方が安全だ
と考えないはずはない。しかしホルムは、約束が破られない限り、チャ
ンスがあると思っていた。拳銃を持ったふたりに、どう立ち向かうかは
分からなかった。
バルディと呼ばれていた男が、姿を現した。背が高く、マヌケな容姿
で、顔は薄っぺらで青白かった。しかし、銃がなくても、ケンカは強そ
うだった。
砂浜のあいだを通る場所は、道があるようには見えなかった。ふたつ
の砂丘を下ったところ、100ヤード先の砂浜と海のところに、掘っ建
て小屋があった。それは、嵐が来たら吹き飛ばされてしまいそうな、ボ
ロボロの木の小屋だった。
「ふたりの手を縛れ、バルディ」と、片刃刀男。南京錠の掛かったドア
に来ると言った。「オレたちが捜しているあいだ、ふたりを見てられな
いからな」
「分かった」と、バルディ。ふたりの背後に回った。
ピートホルムは、ポケットに手が入れられて、ハンカチが取り出され
たのを感じた。銃がベルトのバックルを狙っていたので、どうすること
もできなかった。手首が後ろに回され、きつく、効率的に縛られるのを
感じた。
エレンの手首も縛られると、片刃刀男は、銃をこん棒にして、小屋の
ドアに掛かっていた南京錠を壊した。バルディがドアを蹴った。
「電気を、ボス」と、彼。「なんて臭いだ!電気のスイッチはどこ?」
やつらが小屋に押し入ったにもかかわらず、ピートホルムは、ニヤリ
とした。
「スイッチはない」と、彼。「ランプなら、テーブルの上」
マッチを擦る音がして、しばらくして、小屋に明かりが灯った。
「入れ!」と、ブレザーコートの男。ホルムとエレンに命じた。ふたり
に続いて小屋に入ると、ドアを閉めた。「このすみに立って、じっとし
ていろ!あとで、仕える」
その言い方にふつうでないなにかを感じて、ホルムは、「仕える」と
いうほんとうの意味を知った。すでに人を殺している男たちは、犯行を
知ってる者を生かしておくはずがないと。やつらは、逃走時に、追われ
るようなまねはしたくなかったのだ。
「ここは、なにか臭う、ボス」バルディの声が、嫌がっていた。「この
ラードのカゴから腐った臭いがする。こいつを外に出そう!」
「ちょっと待て!中身がなにか確かめろ!」
バルディは、ぶつぶつ言いながら、テーブルにあったナイフをつかむ
と、命令に従った。
「なにもない」と、彼。「なにも入ってない」
窓を開けると、ナイフとカゴを放り投げた。
片刃刀男は、オートマティックをホルスターに戻すと、テーブルの後
ろの船用チェストを調べた。
「そこの棚も、あるものすべて」と、彼。バルディに。「すべて捜せ!
砂糖や塩も中を調べろ!老人は、ものを隠すことについちゃ抜け目ない」
「たぶん、ここは頭がおかしい」と、バルディ。ぶつぶつ言いながら。
「あんな臭いところにいられるんだから、うう!」
「狭いところに、時間を掛けるな!」
ブレザーコートの男は、立ったまま、冷たい目で、ゆっくりと目で追
っていった。ただの板の壁、クモの巣の張った天井、板張りの床、それ
らは、最近、動かされた痕跡がなかった。
「外に埋められているのかも」と、バルディ。「しかし、へっ、ボス、
やつが生きてたら吐かせられたのに、撃つべきじゃなかった」
「だまれ!」
片刃刀男は、ホルムとエレンを見た。
「あそこへ行け!」と、彼。頭を小屋のドアとは反対側のすみへ向けた。
ホルムとエレンは、そこまで移動した。エレンはイスに縛られたが、
ホルムは立ったままだった。エレンは、ホルムの近くにいたので、アイ
デアを伝えた、ずっと考えていたアイデア。彼は、やつらが小屋へ入っ
たときから、ハンカチの結び目をゆるめようといろいろやったが、なか
なかゆるまなかった。指さえ結び目に届いていなかった。しかし、エレ
ンは━━━やつらがエレンから離れるとすぐ、エレンの座るイスのうし
ろににじり寄った。
彼女ににじり寄って、縛られた手首の側面だけでも届くようにしたが、
それがバレないように両肩はまったく動かさなかった。彼女の手が届い
た。顔にはまったく出さずに。うしろ側で、彼女の指先が触れ、彼の手
首にさわり、結び目をほどき始めたのを感じた。
「なにもないぜ、ボス」と、バルディ。「やつらの言っていたとおりだ。
あの老人は、なにも見つけてない。ホラ吹きだ!ふん!あのとき、オレ
もはったりだと思ったんだ」
ブレザーコートの男は、イスを悔しそうに蹴った。
「オーケー、オーケー、おまえの勝ちだ」と、彼。「だからなに?今夜
じゅうにズラかるが、なにか失ったものが?」
ホルムの方を向いた。結び目は、まだ、ゆるんでなかったが、ホルム
は力を込めて、手首が離れるように引っぱった、どうなるかは分かって
いた。バルディは、銃を手にしていた。
「じゃあ━━━」
「待て!」と、片刃刀男。「この明るいガキは、町で、1発オレをから
かってくれた。利子を付けて、お返しをしようじゃないか、ギャルちゃ
んは離れていて!」
エレンの肩を押して、ピートホルムから荒っぽく離そうとした。こぶ
しを握って、スウィングバックした。歯を食いしばって、殴り掛かった。
結び目がほどけた。エレンは、2つとも結び目を解いて、もうひとつ
もほどこうと引っ張ったが、数秒の余地もなかった。
ブローが来た。ホルムは、頭を横に曲げた。拳が耳を掠めた。ホルム
は、体ごと、片刃刀男にぶつかって行き、男は衝撃で後ろに倒された。
「立って、ボス!」と、バルディ。ホルムは、それを聞いて、バルディ
の銃をチラッと見た。
それを気にしてるヒマはなかった。手首はほどけて、両手を前に持っ
て行くことができた。片刃刀男は、脇のホルスターの銃を抜いた、もう
拳に頼ることはしなかった。拳銃の台座を握る手が見えた。
ピートホルムは、その手首を握り、動けなくした。もう一方の手を男
の肩に回し、バルディの銃の前に向けようとした。しかし、間に合わな
かった。バルディの銃はねらいを定めようとしていた。凍り付いた一瞬、
彼は銃口がちゃんと向いているか考えた。
そのとき、別の音がした。ガラガラいう音で、ホルムは目の端で、エ
レンを見た。彼女は、まだ、縛られたままで、イスごと転がって、バル
ディの方に倒れ込んで行った。エレンとイスが、彼の足首にぶつかって、
銃は上を向いたまま、暴発した。弾丸は、タールを塗った紙製の屋根を
貫通した。
バルディは、悪態をついた。しかし、2発目を撃つ前に、ホルムは、
男の肩に腕を回したまま、バルディの方へ、体重がぜんぶ銃を持った男
に掛かるようにすくい投げた。これら3つが、争いの中で同時に起こり、
小屋の壁が揺れた。
ホルムは、立って、両手が自由だったので、片刃刀男のオートマティ
ックを、すばやく奪い、バルディの頭を銃の台座で殴った。バルディの
リボルバーは、床に命中した。それで、すべて終わった。あとは、エレ
ンを自由にして、ふたりの殺し屋を縛り上げるだけだった。
エピローグ
月の光は、さらに明るく、ピートホルムとエレンは、警察に電話する
ために、一番近いコーストガードステーションへ向かって歩いた。
「かわいそうな、ジャック叔父さん」と、エレン。やさしく。ホルムの
右腕に寄り添って歩いた。「でも、よく生きたわ。天寿をまっとうした。
一番近い親戚は、あなた?旅はしばらくお預けね、葬式とかで」
ホルムは、うなづいた。「かなり長く、ハニー。旅はやめるかもしれ
ない。ずっと、ここにいるかも、もういいと思えるまで。そして、葬式
が終わったら、すぐ、結婚しよう!」
彼女の目は、驚きに丸くなって、彼を見上げた。
「おお、ピート、絵の勉強を続けるのね?そして、わたしは働かしても
らえる」
彼は、笑ったが、首を振った。
「だめだ、あんたは働けない、分からない?そう、分かってない。まだ、
1年も住んでないし、新米水夫だ、やつらと同じ。しかし、かわいい新
米水夫だけど。いい?ジャック叔父さんは、今回は、お宝を見つけて来
たんだよ!」
彼女は、立ち止まった。「ピート、からかわないで!」
「竜涎香」と、ピートホルム。「ブルームーンの日ごとに、運が良けれ
ば海岸で見つかる、クジラの臭い耳垢。1パウンドにつき500ドルく
らいで売れる。高級香水の原料などに使われる。
今夜か朝に、ジャック叔父さんは、それを見つけたんだ。今回は、ウ
ソじゃなかった。あのラードのカゴは━━━さっき出てくる前に、砂の
中に埋めて来たが━━━彼が中に入れておいたんだ。あいつらは、だい
たい1万ドルで売れる竜涎香のお宝を、見つけ出しておきながら、窓か
ら捨ててしまったんだ!」
(終わり)