それですべて
原作:フレドリックブラウン
アランフィールド
プロローグ
今朝、とてもハンサムですごく若い男が、家の玄関に来た。彼は、あ
とで分かったが、エホバの証人で、オレを救済するために来た。たぶん、
なにか売るつもりだろうが、そのような話にはまったくならなかった。
オレは、熱心な無神論者だと伝えたが、それでもまったく意に介さな
かった。彼はしゃべり続け、オレは、二日酔いでパジャマのまま、聞き
続けた━━━なぜなら、彼を見ていると、自分を見ているようで、オレ
が見逃してしまった方法で、もしも神がいて、チャンスがあれば、彼は
宇宙の一部を変えて、オレに奇跡をもたらせてくれるように思えた。オ
レは、奇跡がなくても、簡単に説得されてしまう若者だった。
1
これは、オレが嫌っていることのひとつだった。嫌っているのは、キ
リスト教信者たちの冷淡さ━━━ほとんどの宗教の信者たち、オレはこ
の国で作家をやらせてもらってるので、いわゆる、ほとんどのクリスチ
ャンたちの。
さかのぼって、オレ自身のクリスチャンとしての経験を述べることが、
嫌っていることの説明には一番いいかもしれない。クリスチャンとして、
オレは、ほとんどの者が見たことのない真実に出会った。しかしこれは、
オレがなにかを達成したということでは決してない。
ターニングポイントは、14のとき、母の死とともにやって来た。
両親は、宗教的な人間ではなかった。父は、無神論者を自認していて、
母もおだやかな不可知論者だった。にもかかわらず、両親は、オレが8
才か9才のとき、彼らの唯一の子どもであるオレのために、宗教にも触
れさせて、それも選択肢の1つにすべきという結論に達した。オレのた
めに、両親は、長老派教会に参加し━━━たぶん、その教会がたまたま
一番近かったという理由から━━━オレをそこの日曜学校の会員に登録
した。数年後、(両親は、当時はまだ若かったが)オレは、承認されて、
その教会の正式な会員になった。
9才から14才までの人生は、クリスチャンであったおかげで、オレ
の人生でも、もっともごちゃまぜの時代だった。両親がずっと前に亡く
なったことを信じないでいられるので、オレは神に感謝している。
あんたも分かるように、オレは、論理的に破綻していた。まだ幼かっ
たが、オレは、嫌っている者たちに対抗して、気乗りのしない受動的な
クリスチャンだった。嫌っている者たちというのは、当時も今も、オレ
の同時代人のほぼすべてから成る者たちのことで、オレにはすぐ分かる
ことを、見ようとしない、あるいは、見ないことを選択する者たちのこ
とだった。それは、示された宗教を受け入れて、特にクリスチャンであ
ることをいかなる形であれ受け入れれば、グレーの部分などなく、すぐ
分かる単純な事実だった。神の子が━━━オレたちみんなが神の子とい
う意味ではない、特別な意味での神の子が━━━オレたちを救うために
十字架にはりつけになった、神の子でなければ、彼は、はりつけにはな
らなかった。(校正係の人は、彼をキャプションの彼にしないで!)彼
がはりつけになって、そして、死から復活したら、その事実は、それ以
外のあらゆることに、重要性において超越する。その場合、オレたちの
信仰は、永遠への準備としてのみ、ここ地上にとどまり、クライストへ
の信仰と彼による救済は、人生で唯一考慮するに値するものとなる。そ
れ以外のすべては、重要ではなくなる。
オレは引き裂かれた。人々を理解できないで、(今でもまだ理解でき
ない)人々を、同時代の、そして、それ以前の、人々も、クライストへ
の特別な神聖さや神への崇拝を語るあるいはリップサービスする者たち
を、この世の終わりへの━━━オレたちが生存していようがいまいが、
宇宙の残りへの━━━福音を語り継ごうと努める者に、あるいはそれに
全力を尽くさない者に。
それは、オレには、単純な常識に思えた、そして、今でもそう思える。
クリスチャンであることは、迷信だと考える。もしそれが迷信でないと
しても、その中間のものなどない。良い神かどうかが重要で、それだけ
だ。神であろうと、その息子であろうと、オレたちに姿を見せたのか、
見せなかったのか?
2
そう、オレは、母の死を覚えている。だが、それに先立つ数週間ので
きごとの方が、もっとよく覚えている。そのとき、母が死ぬことは避け
られない、それもすぐに、と突然告げられた。オレは、母が病気で、そ
れががんだと知っていた。しかし、医者は希望があると言い、オレは真
実を見ないようにして、心の奥底に追いやって、認めることを拒んだ。
母は、死ぬはずなどないと。それが、突然、母は死ぬと知らされた。
オレは、泣きながら、走って家を出た。哀れっぽい誤った考えが浮か
ぶのは、ふつうの悲しみの反応だった。雷鳴がとどろき、稲光がして、
猛烈な横殴りの雨であって欲しかった。しかし、それらはなにもなく、
暗闇さえなかった、オレの魂の中以外は。穏やかな春の夜で、シンシナ
ティの通りは、夜でも明るく輝いていた。オレは息が切れるまで走り、
それからなんマイルも歩いた、オレは祈った━━━神に、どう祈った?
祈りを越えて、神と約束した、もしも彼が母を直してくれて、奇跡によ
って彼女を元気にさせてくれたら、アフリカの暗黒大陸だろうと、彼が
指示するどんな場所へも、宣教師として渡り、残りの人生、すべてを彼
に捧げると。
◇
母が死んだ夜を覚えている。家から出て、長老派の牧師の家で夜を過
ごしていた。(牧師は、少年たちと夜を過ごすのが好きだった。実際に
触れたりはしないが、いろいろ気に掛けてくれた。とてもやさしい牧師
だった)
真夜中に、電話が鳴るのが聞こえた。牧師が答えているのが聞こえた。
その会話の終わり方から、オレは母がそのとき死んだのだと知った。
牧師がベッドに戻って来たとき、オレは眠ってるふりをした。しかし、
ほんとうははっきり目覚めていた。もちろん、深い悲しみを感じた。し
かし、激情はすでに使い果たされ、悲しみはおだやかだった。オレの感
情のほとんどは、ホッとした気に近かった。母の死よりもっと悪い運命
から、救われた気がした。
クリスチャンであることは、その道徳観を除いて、すべてクズ、ある
いは、迷信だとは、オレは思ってなかった。迷信と言ったら、だれかを
怒らしかねない。無神論者になれば、あるいは、ずっとそうだったと思
えば、オレは安心できた。そのことに気づいてから、オレの心は、その
後、曲げられることはなかった。
エピローグ
その朝、そうしたことがすべて、オレの心によみがえった。40年も
たって、立ったまま、半分目覚めながら、エホバの証人のとても快活で
とても親しみやすい若者がしゃべるのを聞いていた。オレは、彼には正
直になれた、ただ、やさしく。
オレが彼の中にふたたび見たものは、14才のオレ自身の中に見たも
のと明らかに完全にいっしょで、彼が正しいにせよ、オレが正しいにせ
よ、いずれかであって、その中間はない。
彼の話を聞いていて、明らかだと思うことがあった。そこでは、神の
優美さは存在しないか、良くても、あるいは悪くても、彼の優美さは、
彼自身に関することでも、ネズミやスズメや人間に関することでもなく、
オレに向かっているということだった。そのオレは、彼に無力にされ、
奇跡を受け入れていた。
オレは、その若者の話に耳を傾けた。彼は間違っていて、マヌケかも
しれないが、耳を傾けた。オレは、アッシジの聖フランチェスコにも、
ナザレのジーザスにも耳を傾ける。そして、歩き回る托鉢僧にも、その
ほか、だれであれ自分の信ずるものに全力を尽くすものに耳を傾ける。
オレはそいつが好きでないかもしれないが、理解はする。オレが理解で
きないもの、決して理解しないもの、その目にツバを吐き掛けてやりた
いものは、示された宗教の受動的な信者たち、それが真実だと分かって
いて、人間的にも宇宙的にも重要であり、それを信ずること以外に価値
あるものはないにも関わらず、全力を尽くさないものたち、生涯の全部
を捧げないものたち━━━
(終わり)