殺しのプロット
          原作:フレドリックブラウン
          アランフィールド
           
            プロローグ
             
 アメリカには、マスクをつけた男が、人々の関心を引かないで歩ける
通りは、わずかしかない。ブロードウェイ、マンハッタンは、そうした
通りのひとつだ。ブロードウェイでは、洗練されても純真に見える。
 マスクをつけた男が、交差点近くに停めた車から降りて来た。ブロー
ドウェイの北50番通り。多くの人々が彼が車から降りるのを見たに違
いないが、問題にされなかった。警察でさえ、のちに、彼を車まで追跡
できたが、問題にされなかった。車は盗まれたもので、そのこと自体、
報告されたのは、数時間あとだった。
 




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            登場人物
             
ビルトレーシー:ラジオドラマの作家、『ミリーの百万ドル』を書いた。
ミリセントヒーラー:ビルの向かい隣りに住む女、ミリー。
ミリーメレトン:ドラマのヒロイン、ミリー。
ディニーン:ラジオのプロデューサー、ビルのボス。
レックス:ディニーンの飼っているドーベルマン。
エルシー:ディニーンの秘書。
ウィルキンス:ラジオのスタッフ、ディニーンの部下。

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 明るい赤の衣装は、12月ならまったく目立たなかっただろう。今の
暑苦しい8月の太陽の下では、偶然、通り過ぎるなん人かに好奇の目で
見られた。なん人かは、振り返ってから、彼の背中に宣伝用のプラカー
ドがないことを不思議に思った。確かに、彼は、宣伝用か、なにかを売
っていたに違いない。だれも、8月に暑いフラネルのサンクロースの衣
装を、宣伝用かなにかを売るためでなければ、着ようとは思わない。
 サンクロースの衣装やマスクがまともでなくても、通り掛かりの者に
はどうでもよかった。ただのギャグだと知っていて、なにか愉快なもの

4

3





を捜しているのでない限り、興味はなかった。すぐに彼はドアの前で立
ち止まり、こちらを向いて、売り口上を始めるだろう。やがて、サンタ
クロース石鹸を売りたいのか、ジャガイモの皮がすぐむけて、ナイフの
いらないピーラーを売りたいのかが分かる。
 しかし、サンク服の男は、宣伝のために立ち止まらなかった。歩き続
け、急ぐでもなく、自分がどこへ行くのか分かっている、ビジネス風の
足取りで。
 ふりをしているのなら、完璧だった。色の服とまん丸の頬が、ほん
とうの背丈をごまかし、彼が背が低く、太っていると思わせるために、
胴の周りに枕を巻く必要はなかった。その後、警察は、彼とすれ違った
多くの者たちの中から、12人から意見を聞くことができたが、報告は、
互いに、細かい点で食い違っていた。多くの者は、彼は太っていて丸か
ったと言った。少数の者は、それとは違って、背が高く、枕がなければ
やせていたと言った。枕を巻いていた?
 背丈:低いか高い。体型:太っているかやせている。目の色:不明。
目立った特徴:からかってる?
 それが、警察が集めた意見をまとめたものだった。役に立ちそうもな
かった。しかし、足取りはつかめた。北50番通りから南50番通りへ。
そして、殺人のあと、南50番通りから北50番通りへ戻った。しかし、
スキップしないで、順番に見て行こう。

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5





 サンタ服の男は、南50番通りのビルに入った。エレベータで、3階
に上がり、廊下をオフィスまで歩き、アーサーD・ディニーンと書かれ
たドアをけた。
 室には、ドアのすぐ内側にレールがあった。レールの向こうのタイプ
デスクに、速記タイピストが座っていた。彼女は、目を上げて、入って
来たサンタ服を見た。目が少しだけ広がった。
「ミスターディニーンと約束がある」と、サンタ服。マスクをしたまま。
「あなた、うう」速記タイピストの目は、壁の時計からデスクのメモ帳
に移して、リンゴのような頬に笑いを浮かべて、言った。「名前は?」
誰も加われない、ひとりよがりの雰囲気で。
「ジョンスミス」と、赤服。「10時15分の約束」
 そう、それがメモ帳に書かれた名前だった。彼はレールの外に立って
いたので、それを読めなかった。「ええ、ミスタースミス」と、デスク
の娘。「どうぞ入って」
 彼は、レールのゲイトを通って、中のオフィスに続くプライベートと
書かれたドアに向かった。娘は、推理するように、彼を目で追った。変
わり者?だとしたら、心配はなかった。ボスが、自分で約束していた。
きのうの午後、電話があったことを思い出した。
 もちろん、俳優なのだろうが、変わり者でなければ、なぜ衣装を着て
インタビューに来る?

8

7





 赤服の男は、振り返らなかった。ドアを入ると、ドアは彼の後ろで静
かに閉まった。
 中のオフィスのデスクにいた男は、顔を上げた。衣装を見て、言った。
「いったい?」
 その声が終わらぬうちに、室の遠いサイドに、うなり声がした。大き
なドーベルマンは、開いた窓の日除けの下で丸くなっていたが、今、立
ち上がった。イヤな予感がした。お面の穴を通して見ていた目は、うな
り声を上げるイヌからデスクにいるグレーヘアの男へ向いた。マスクの
中の声が言った。「もしもイヌを殺されたくなければ、そいつに言え」
最後まで言い終わらぬうちに、彼の手にしたピストルが、指示を静かに
伝えた。ピストルにはサイレンサーが付いていたからだ。
 デスクにいた男は、リボルバーのサイレンサーを見ても目を細めただ
けで、両手を静かに記録帳の上に置いていた。
「なにが欲しい?」と、彼。
「トラブルは好きじゃない」と、サンタ服。「最初の命令は、イヌにお
座り、なにをするか知らないが」すべきでないことを言おうとしている
かのように、急にしゃべるのをやめた。
 ドーベルマンは、2本足を硬直させて、前に進み、うなり声が大きく
なった。休んでいるとき、スマートで美しかった。今は、狂暴で美しか
った。目は獲物をねらっていた。首の回りの短い毛は、黄金のたてがみ

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のように首をおおい、険悪にまっすぐ立っていた。
 足は、スプリングのように、デスクの男が首を回したときも、曲げら
れていた。「レックス」と、彼。しかし、遅かった。あるいは、イヌは
命令を勘違いした。そいつは跳び掛かった。
 赤服が銃の引き金を引いたとき、こもったような爆発音、キャップし
たピストルくらい大きな音がした。空中を弧を描いて跳んで来たイヌを
避けるために、赤服は、横にステップした。イヌのからだは、厚いカー
ペットの床にドサッと倒れ、一度けいれんして、静かになった。
 デスクの男は、跳び上がり、顔は怒りでねじれていた。「なんてこと
を!」と、彼。デスクの上にある最も重いもの、精巧な作りの銀のイン
ク入れをつかむと、赤服に投げるために肩の上で振りかぶった。同時に、
助けを求めて叫ぼうとして、口をけた。
 しかし、2回目のサイレンサーのこもったような爆発音がして、投げ
ることと叫びを止めた。グレーヘアの男は、デスクの上に前向きに倒れ、
左目のすぐ上の額に穴がいた。銀のインク入れは、スイベルチェアの
横のカーペットにできた黒のプールの中心に落ちた。
 冷静な繊細さをもって、サンタ服は、2度撃ったピストルをポケット
に入れた。物音が外のオフィスにも聞こえていると考えて大声で言った。
「ええ、ミスターディニーン、そのことには感謝している。しかし」そ
して、しゃべりながら、デスクを回って、落ちたインク入れを拾った。

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 それを逆さにして、残りのインクを落し、元に戻すと、慎重に布で包
んでポケットに入れた。
 それから、ブラブラとドアの方へ戻り、少しけてから言った。「グ
ッバイ、ミスターディニーン、申し出に沿えなくて、すまない。たぶん、
別の情報網では、いいアイデアが見つかるかも」
 赤服は、中のオフィスに入ったときにいであった白の綿の手袋を付
けると、ドアノブを手袋の手でけて、出る際に、ドアの両側ともに指
紋が残らないように手袋でこすった。
 赤服は、外のオフィスを通り、なにもしゃべらずに速記タイピストを
過ぎて、自分の小さなアイデアが採用されなかった、威厳が傷ついたふ
りをして出て行った。
 エレベータをパスし、階段を2段づつ走って降り、ブロードウェイの
人混みに出た。子どもが赤服を見て言った。「ママ、見て!サンタが」
すぐに、「シッ!」と黙らされた。
 殺人現場からの帰りは、行きのときよりも、通行人の注意を引かなか
った。
 
               ◇
 
 新聞記事で、『サンタクロースの殺し』と出たときは、一般大衆の興

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味を引いた。しかし、だれも、ビルトレーシーほど、いまわしく感じた
者はいなかった。ビルは、午後遅く、新聞を買い、夕食に出る前に、2
DKの彼のアパートで読んだ。
 2度さっと見てから、3度目は、ゆっくり読んだ。それぞれのワード
には重みがあって、背後の隠された意味を捜すように。最後に、新聞を
下に置いて、壁紙のあっさりしたパターン模様をしばらく眺めていた。
やがて、ここでは言えないようなワードを言うと、また、新聞を拾い上
げて記事を読んだ。
 さっきの通りだったが、少し、違った。トレーシーが思いついた結論
は、外に出て、一杯やることだった。マイルドに酔うのではなく、しば
しば彼がやるように、気分良く、悪臭がするほどに酔う、うんざりする
ほどに酔うことだった。
 なぜなら、アーサーディニーン、殺された男を知っていただけでなく、
殺され掛けたドーベルマンも知っていた。イヌは、弾が頭をかすったが、
回復する見込みだった。トレーシーは、ディニーンをどちらかと言えば
好きだった。レックスのことは、数回しか見たことなかったが、もっと
好きだった。6・7月前には、ディニーン氏に毎日のように会っていた。
 いや、酔いたいという衝動は、知人が犯罪の犠牲になったからではな
く、ビルトレーシーが考えた、ドラマのストーリーがそのまま実行され
たからだ。

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 それは、単に、ナンセンスだった。
 もちろん、意味があるから酔ったのではなかった。トレーシーにとっ
ては、2つのことは論知的に結びついていた。
 彼の論理は、時とともに、奇妙な方向へ向いてしまうことがあっても、
あんたたちはトレーシーが好きになる。マイルドに酔っているとき、あ
んたたちがもっとも彼が好きになる。
 酔ってないときは、少し彼は冷笑的に見える。しかし、強く彼を非難
できない。ソープオペラを書くには、聖なる冷笑さが必要だった。トレ
ーシーは、神聖さはなかった。一度訊かれて、自分は新聞記者くずれだ
と答えた。また、彼はこうも言った、彼が書いた『ミリーの百万ドル』
のようなソープオペラを規制する法律があるべきだ。その法律ができた
ら、ラジオ局は、ビルトレーシーのような脚本家を雇えなくなって、ま
た、自分は新聞記者に戻れる。
 彼は、記者に戻れるのか?イエスでもあり、ノーでもある。資本主義
は、もともと、強制で成り立っている。『ミリーの百万ドル』を書いて
支払われた金額は、取材記者として働いていた給与の3倍だった。低い
地位に留まるには、強い意志がいる、給与が格段に違うからだ。
 週400ドル、これが毎週なので、大きな報酬のために、低い地位に
は戻れない、ソープオペラは、ほんとうはなんなのか分かったとしても。
しかしいつでも、昼でも夜でも、あんたたちに訊かれれば、彼は喜んで、

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ソープオペラは、ほんとうはなんなのか話してくれる。
「ラジオのマイルズストーンとは、なにか?その石を引っ繰り返したら、
その下にはなにが?そう、それは、ソープオペラだけが持つ特色。今ま
で一度も引っ繰り返されなかった石を、スポンサーが引っ繰り返したら、
視聴者の反応というセクションが現れる。それが放送されたら、あまり
に下品なため、一度も読まれることも聞かれることもなかった。
 視聴者は、化粧品や石けんのような買い物はする。それと同じに、今
や、視聴者は自分たちに寄り添ったラジオ番組も視聴する。どんな番組?
際限のないシーンが続いて行く、そこに登場するのは、とても人の良い
キャラクターたちが、もしもキャラクターと呼んでいいなら、とても悪
い状況に苦しめられる、そのなんと悪いことか!
 ソープオペラの脚本を書くことは、ヒロインがたどる運命を描くこと
によって、あんたたちを、目が覚めたままの悪夢に案内する。ヒロイン
は、地震にあったり、片思いや中傷メールに悩んだり、ギャングやスパ
イにつかまったり、殺されそうになったり、そのほかあらゆる災難に合う、
ほんとうにヒロインが望んでいるものを得られること以外。ラジオでは、
ヒロインは決して救われることはない。
 あんたたちは、つまり、オレは、ヒロインをいつもあらゆる困難に合
わせる、最後のものから、救い出される前に、永遠に。ときどき、オレ
は、家事をしながら『ミリー』を聴いている女たちの意見を集約したい

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と思う」
 そう、それは、トレーシーがファンたちにしてあげたい、マイルドな
方のひとつだが、それでさえ、口には出せない。ときには、トルケマダ
に誓えるような、奇妙な新しいことを考えることもある。しかし、もち
ろん、トレーシーは、そうだとは認めない。
 石を引っ繰り返せば、トレーシーは、(ファンでなくても)ミリーの
ことが好きだ。たぶん、それが、なぜ毎回の放送で、彼女が災難に合う
のかの理由になっている。辛くて厳しい状況を視聴者の望む通んでいる
ことが、脚本家を追い込むからだ。
 フェアな観点からすれば、ソープオペラの仕組みは、過去の偉大な文
学の仕組みと、基本的には、同じだと認めるだろう。唯一の違いは、実
際のところ、『ミリーの百万ドル』と、たとえば、ホメロスのオデュッ
セイアでは、ユリシーズの苦難は、やがて終わるが、ミリーの苦難は、
終わることがないということだけだ。なぜなら、視聴者が望むことは、
それが永遠に続くことだからだ。彼女は、決して、幸せな結婚はできな
いし、解決することはなく、しかし死ぬこともできず、ずっとトラブル
を抱えている。それが、もちろん、ラジオドラマシリーズが、耳の肥え
た視聴者から害悪とみなされるほんとうの理由となる。始まりと終わり
のあるドラマでなく、あからさまなバカらしさに至るまで、ずっと続い
て行く。

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               ◇
 
 トレーシーのことに戻ろう。壁紙をずっと眺めてから、電話のところ
へ行って、ディニーンのオフィスへ電話した。
「ハロー」と、エルシーの声。
「トレーシーだ」と、彼。「新聞を見た。なにかできることは?」
「たぶん」と、彼女。とても疲れている声だった。「なにもない、ミス
タートレーシー。ウイルキンス氏が、今、来ている。彼を呼ぶ?」
「特に別に、いや、彼につないで!少し話したい。待って!その前に教
えて!午後の早い版の新聞を買って、今、読んだところだが、その後、
なにかあった?犯人が見つかったとか、なにか?」
「なにも、ミスタートレーシー!新しいことは、なにも。ちょっと待っ
て、ウイルキンス氏に代わる」
 少しして、たしかに、ウイルキンス氏の声がした。
「はい?」と、ウイルキンス。
「ビルトレーシーだが、ミスターウイルキンス、前に会ったのを覚えて
る?そう、それは良かった。なにかできることがあれば、と電話した」
「それは、うれしい、ミスタートレーシー。番組は、もちろん続く。い
ろんな話の筋をたどってるところ、そう、続けるために。教えて!『ミ

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リー』の続きは、いくつ書いてある?」
「3つ」と、トレーシー。ゲームを先取りしておいて良かったと思った。
「つまり、3つに、少し手直しすれば、使えるものが5つ。契約では、
オレに1週分を先取りだったが、きのう原稿を整理していて、それより
多くそろえた。クロフォードに手渡してある。それで、3日分は、済ん
でいる」
「すばらしい!ところで、ディニーンの家族に面識は?」
「親しくは、ない」と、トレーシー。「1度か2度、会っただけ」
「それなら、個人的に花を送らなくてもいい。こちらで番組スタッフか
ら花代を集めたが、あんたも2ドルくらい参加する?」
「もちろん!オフレコでいいなら、5ドルを追加して!明日、スタジオ
で返す」
 彼は、受話器を置くと、少し汗をかいてるのに気づいた。もしも彼が、
こんなことをウイルキンス氏に言ったら、どんな反応をするだろう?
「聞いて、ミスターウイルキンス、伝えたいことがある。あの殺人は、
オレが計画した」
 ウイルキンス氏に言おうとしたことは、『ミリー』の終わりに出て来
る話だった。もちろん、ほんとうの終わりではなかった。しかし、トレ
ーシー以外のだれかが、ミリーの運命を左右する。
 トレーシーは、キッチンへ行くと、キャビネットからボトルを出して

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グラスに注ぎ、冷蔵庫の炭酸のボトルで割った。この2つのボトルは、
捨て忘れたカビの生えたクラッカーを別にすれば、キッチンにある唯一
のストックだった。ふつうは、トレーシーはアパートのキッチンで、料
理をすることは決してなかった。少なくとも、料理をしようと思ったこ
とはなかった。しばらくは、ゆっくりすすっていたが、半分飲んでから、
残りは一気に飲み干した。2杯目のドリンクを作って、それを持って、
リビングルームで後ろに傾くモリスチェアに座った。
 それは、もちろん、偶然の一致だと、自分に言った。
 しかし、それは、ひどい偶然だ。警察に行って、言うべきだろうか?
もしもそうしたら、一級の変わり者と呼ばれるか、容疑者にされるのが
オチだ。あるいは、宣伝のためのギャグと思うかもしれない。あるいは、
ディニーンを殺そうとしていたとさえ考えて、裁判で疑惑を分散させる
つもりだと考えるだろう。
 ディニーンを殺そうとする理由は?いや、ない、彼のボスであるとい
う以外は。
 いい動機はないが、手段は?サンタクロースの衣装もサイレサー付き
ピストルもないが、持ってないことを証明するのは難しい。実際の犯人
は、もう、そうしたものをすべて処分してしまっている。
 アリバイは?犯人は、今朝、10時を少し回った時間に現れた。その
時間は、まだ、耳当てをして、ベッドで寝ていた。ひとりで。正午まで

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起きず、1時まで朝食を食べに外へ出なかった。アリバイになるような
ものは、なかった。
 慎重に、きのうの夜7時以降の行動を、時間ごとにたどってみた。そ
の時間から、8時半まで、自分のデスクで書いていた。8時半に、酒を
やりに、階段を降りた。ジョーの店で、軽く一杯飲んでから、北へ数ブ
ロック行って、スタジオの2人の仲間と合流して、路地で最近オープン
したオアシスというファンタスティックな店で、しばらくしゃべり、ド
リンクを賭けてダイスをやって、1時半に家へ帰って、しばらく読書を
して、それから、ベッドへ入った。そして、正午まで眠った。
 しかし、まったく、酔ってはいなかった。少し陽気だったかもしれな
いが、今、思い出せないようなことをするほど、酔ってはなかった。
 事実として、実際は酔っていたとしても、後で思い出せないようなこ
とをしたり、言ったりすることは、決してない。なにかバカなことをす
ることはあっても、いつもかならず後で、その過程の詳細を思い出せた。
能力を過信するのではなく、個々の事例を思い出せることが楽しかった。
 魂に訴えるようなものは書かなかったが、確実なものを書いて、自分
の生活をそれで支えた。
 バスルームへ行き、薬キャビネットの電気をつけて、ガラスに顔を映
してみた。ふつうに見えた。ギアをむき出しにし始めるようには、見え
なかった。37才を1日でも越えているようには見えなかった。遅かれ

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早かれ、酒を控えたり、そのようなふりを始めるだろうが、今は、この
8月の朝については、ガタが来ているようには見えなかった。
 電気を消して、また、電話のところへ行った。だれかとしゃべらない
と、気分が落ち着かなかった。
 しかし、だれと?ハリーバークは、町を離れていた。1週間ほど前に、
2週間の休暇を取って北へ行き、今もそこにいる。リーステンガーは、
車の中だ。ディッククレバーンは?ディックは、最近できた友人だが、
聞き上手で、チェスの腕前はかなりのもので、このことの答えを導き出
してくれるかもしれない、もしもだれかができるとしたら。
 ディックの電話番号に掛けて、ディックが答えてくれることを望みな
がら、立ったまま、受話器をつかんでいた。静かな男、ディッククレバ
ーンは、しゃべり出すと仲間が寄って来る。『ミリーの百万ドル』のレ
ジナルドメルトン役をやっている。トレーシーが、彼のために特別に書
いたのだ。ディックの能力に合わせて、ディックなら楽にこなせるよう
に、もともとはディックは、マイクにしゃべるよりは、ステージで演技
する方が得意だった。
 しかし、電話にはだれも出なかった。受話器を置いた。考えてみると、
ディックは今日は出番なので、まだ、スタジオから家へ帰る途中なのだ
ろう。
 トレーシーは、外出するために、コートと着て、ハットをかぶった。

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酒も飲まずに家に帰ったことを、思い出した。しかし、飲みに出掛ける
前に、ドアにノックの音がした。トレーシーは、ドアをけ、喜んで、
言った。「ハロー、ミリー!」
 それは、『ミリーの百万ドル』のミリーではなかった。ミリーは、架
空のキャラクターだった。ミリーヒーラーは、架空でなかった。
 ミリーヒーラーは、同じアパートの向かい隣りに住む娘だった。名前
が、マイルドに一致することが、まず起こらないことのひとつで、人生
を複雑にしている。
 4か月前、トレーシーは、スミスアームズにアパートを借りたとき、
隣りの郵便箱に、ミリセントヒーラーという名前があるのを見たが、ビ
ルの名前かなにかだと思って、気にしなかった。
 しかし、スミスアームズという名前は、ビルのドアの上にあって、中
に入る際にかならず目に入る。郵便箱から自分宛てのメールを出すとき
も、目に入る。今では、それが、新たな悩み事の1つになっている。
 ミリーヒーラーの名前は、それとは別だった。彼は娘に好感を持って
いた。彼女は、コリーの子犬のように、フレンドリーだった。ある適当
な点までは。あんたも、彼女を好きになる。鼻がもう少し低くて、髪に
問題がなければ、テレビ映りも良いような大きなブルーの目をしていた。
笑うと口が広がり過ぎて、あるいは、彼女を知れば知るほど、サイズの
ことは気にならなくなり、口の大きさにも気が付かなくなる。

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 しかし、トラブルは彼女と知り合いになったときから始まる。彼女を
ミリセントと呼ぶのは不可能で、あるいは、それが彼女の名前だとは想
像もできない。彼女は、ミリーでなくてはならなかった。
 トレーシーは、『ミリーの百万ドル』の原稿を座って書きながら、ミ
リーメレトンがミリーヒーラーと心の中でごっちゃになってることに気
付く。彼の想像の産物であるミリーメレトンが、なにかをし始めたり言
ったりすると、フレッシュなミリーも、し始めたり言ったりした。
 そして、それが直ちに、原稿に結びつき、木の下からページを引っ張
り出すことができた、そしてまた、その繰り返し。ミリーヒーラーは、
明らかに、ソープオペラのヒロインのキャラクターとは別だった。ミリ
ーメレトンは、視聴者の望む苦難を背負って生まれたキャラクターだっ
た。苦難につぐ苦難につぐ苦難。しかし、ミリーヒーラーは、そう、彼
女は、ミリーメレトンのほとんどの苦難を笑い飛ばすことができた。
 明らかに、ミリーメレトンの苦難をともにする視聴者は、ミリーヒー
ラーのような人生に向かうことを、決して許さないだろう。彼女は陽気
で、フレッシュで、ラジオのヒロインではあり得ないほとんどすべてを
持っていた。
 
               ◇
 

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 今、トレーシーは彼女に会えたのがうれしかった。ハットを取って、
1歩下がった。
「外出?」と、彼女。
「いや」と、彼。「つまり、イエス」彼はニヤリとした。「ちょうど、
その中間、外出するのか帰宅したのか分からない。とにかく、入って、
一杯やろう!」
 彼女は入って、モリスチェアのひじ掛けに座った。トレーシーは、また、
キッチンへ行った。ボトルの残りは、ちょうど、2杯分だった。かき混
ぜてから、リビングルームへ運んだ。
「バタン」と、ミリー。一口すすった。「昨夜盗んだタバコを返しに来
た。もちろん、同じものではないが、同じブランドでなるべく近いもの」
「昨夜、ミリー?」
「ええ、きのうの夜」ハンドバッグからタバコの箱を出して、デスクの
上に置いた。「ここで盗んだ。あなたが出掛けたあと」
「どういう意味、盗んだって?」トレーシーの顔は真剣だった。グラス
をデスクに置いて、立ち上がってミリーを見た。「ドアの鍵を掛けなか
ったということ?1時半に帰宅したとき、鍵はちゃんと掛かっていた」
 彼女の目は、彼と目が合っているあいだに、大きく見開かれた。「ト
レーシー」と、彼女。「正直なところ、あなたの心が分からない、でな
ければ、そんなことは決して━━━そんなふうに見ないで!悪かった、

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あなたがほんとうに心配してるなら。2度とそんなことはしない」
 トレーシーは、グラスをまた置いて、デスクのはしに座った。「聞いて!
ミリー」と、彼。「昨夜、妙なことがあった、つまり、今日。昨夜オレ
が書いたものと、今日実際に起きたことに、妙なつながりがある。ミリ
ー、あんたがここへ来て、なにかを盗んだと責めているのではない。あ
んたは、どこへ行っても歓迎される。しかし、あんたがここにいて、な
にがあったか話して!」
「トレーシー、なにか盗まれた?」
 彼は、少しニヤリとして、安心させるように、笑った。結局、ミリー
があの殺人事件に、なんらかのつながりがあると考えるのは、まったく
のナンセンスだった。
 彼は、声の音程を少し低くした。「これから、すべてを話すから、ミ
リー!胸のつかえを取って、スッキリしたい。最初に、あんたはここに
どのくらいいたか、なん時かも話して!オレは、ドアに鍵を掛けなかっ
た?」
「だいたい、8時半、トレーシー。正確には、分からない。フロの準備
をして、出掛けようとして、タバコが吸いたくなって、切らしているこ
とに気づいた。室内用コートを着て、あなたの室のドアをノックして、
1つ借りようとした。ドアをけて廊下に出ると、あなたが乗ったエレ
ベータのドアが閉まるのが見えた」

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「確認のために訊くけど」と、トレーシー。「ちょうど8時半に、オレ
は外出した?」
「呼んだけど」と、ミリー。「エレベータのドアが閉まって、あなたに
聞こえなかった。それで、タバコを切らしたままなので、もしもあなた
が鍵を閉めなかったら、1箱借りても、気にしないだろうと思った。デ
スクの引き出しに、1カートン入れてあるのを知っていたので」
「しかし、オレは、ドアに鍵を掛けなかった?」
「ある意味、掛けた。ドアノブのラッチは押してあったが、ドアがしっ
かり閉まってなかったので、鍵は掛かってなかった。それで、ほんの1
分だけ室内に入って、タバコをもらった。出るときは、ドアをしっかり
閉めたので、鍵が掛かった。それが、あとであなたが帰ったときに、鍵
が掛かっていた理由。なにがどうなってるのか分かった、トレーシー?」
 トレーシーは、ため息をついた。長い一口を飲んでから、彼女をまた
見た。「もしも長くいたままだったら、誰かがここへ侵入したかもし
れなかったが、それについては、かなり安心した。オレが出て、1分後
に鍵はしまった。帰るまで。見た?」
「見たってなにを?」
「いい?」と、トレーシー。「オレは原稿を書いて生活している。『ミ
リーの百万ドル』でないが、別の。タイプライターにページが挟まって
いる。たまたま見たことある?」

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 ミリーは、首の上が少し赤くなった。「ええ、1行か2行読んだこと
はある。悪気があったわけでなく、つい見てしまった」
「読んで、なんのことか分かった?」
 彼女は、うなづいた。「ミステリーの概要だった」一瞬、口をすぼめ
てから、考えた。「男が出て来て、サンタクロースに偽装して、だれか
のオフィスへ行き、彼を殺し、あとでだれも犯人を特定できない。いい
トリックだと思う、トレーシー。好きなアイデア」
「だれか別の人に?」
「どういう意味?」
「今日の新聞は見た、ミリー?」
「朝刊を、しかし、多くは読んでない。見出しと、おもしろい記事だけ」
「それなら、午後の版を見て!」と、トレーシー。デスクにあった新聞
の1枚目を手渡して、2番目の記事を示した。
 ミリーは、ゆっくりと、その記事を全部読んだ。顔を上げた。
「ディニーン」と、彼女。「あなたのボスね、トレーシー?」
「そう。聞いて、キッド!ここが重要な点。昨夜7時にこのアイデアを
考えた。それを知ってる人間はオレひとりだった。今、オレたちのふた
りになった。待って、あんたは原稿のことをだれかに話した?よく考え
て!だれかに一部でも話した?」
 ミリーは、強調するように、頭を振った。「だれにも話してない、ト

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レーシー!正直に誓う!」
「オレも話してない」
「しかし、トレーシー、ただの偶然の一致!ほかにはあり得ないわ!」
 トレーシーは言った。「見知らぬ人の話だったら、ミリー、偶然の一
致だと思うが、だれかが知っていて、つながりがある。うう、まだ、偶
然の一致だとしか思えない。ほかになにがある?そろそろ外出して、忘
れよう!いっしょに来る?」ミリーは、そうした。



            2
 
 トレーシーは、酔っているのではないかと思った。知り合いでなけれ
ば、見た目で判断することはできない。自分の酒を、持つことはできた。
ミリーの酒は持つことができない。30分前に見失った。しかし、自分
の酒を、持つことはできた。
 
 
 
                            (つづく)

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