レッドダイアモンド
            原作:マークショア
            アランフィールド
             
            プロローグ
             
 45口径のぶっとい弾丸が、かわいい女に口笛を吹くように頭をかす
めたとき、オレは暗くなった床にバタンと伏せた。さらに2発がかすめ
背後の壁にのめり込んで、ズシンズシンと音がした。
 街のアラブ人の店で飲んだ安物のウィスキーが、オレの動きをのろく
していた。オレはあわててトレンチコートの中の拳銃を手探りした。拳
銃の台尻に触れたとき、ホットなポーカーでロイヤルフラッシュがオレ
の手にすべり込んできたように感じた。目が暗闇に慣れると、ドアがひ
らいてギラギラした光が射しこんだ。ドアに、女のシルエット。



 

2

1
























































「レッド?」と、女。
「伏せろ!」オレは、大声で叫んで、体をひるがえして、銃の閃光が見
えた場所に2発撃ちこんだ。
 38口径を食らった男のうめき声がした。
 フィフィはドアに立ちつくしていた。背後からの光が、フィフィのブ
ロンドを太陽のかさのように見せていた。フィフィの大きな目のブルーは、
なにも知りたくないというかのようだった。
「だいじょうぶ」と、オレは、震えて立っているフィフィのところへゆ
っくりと歩いていった。「すべては予定どおりだ!」

            1
 
「そこにいるのは知ってるのよ!」と、女の声。それは、とげとげしい
皮肉が込められていて、フィフィのやさしいハスキーボイスとは似ても
似つかなかった。ファンタジーは終わりだ。サイモンは机の上の本を閉
じた。
 ミリーは、やわらかいピンクのスリッパで音もなく歩いてきて、未完
成の地下室で、薄汚れてはいるが詰め物がいっぱいで安楽そうな作りか
けのイスにいるサイモンを見つけた。サイモンは背筋をのばし、これか
ら始まる長い小言に耐える心の準備をした。

4

3
























































「あなたとそのゴミのような本!」と、ミリー。「ほかのだんなはみん
なまともな趣味を持ってるわ!家具木工とかにすれば、あなたもそのイ
スを直せるのよ?でなけりゃ、コイン収集とか。ジャスパーマードック
のコレクションは、2万ドルの価値があるって知ってた?」
 ミリーは、サイモンが驚いて「ふ~ん」と言うまで待った。
「ジャスパーは3千ドルしか使わなかったって、ローラが言ってたわ。
今、その価値が7倍になったのよ!」と、ミリー。「ジャスパーは、前
にそれらを売ってほしいと言われたそうよ。それらを売ることもできる
し、新たに買うことも━━━」
 がみがみ言われながらも、サイモンはミリーをすばらしい女性だと感
じていた。化粧なしで目のまわりに眠たそうなくまがあっても、ミリー
は美しかった。
 40才にして、ミリーは成熟した女性の美しさをもった。19年前に
結婚した頃より美しかった。19年が信じ難かった。
 ミリーは年とともに数ポンド太ったが、うまく分散されていた。濃い
赤褐色の髪が顔を引き立てていて、ミリーもそれに気づいていた。サイ
モンが、レストランでウェイトレスをしていたミリーと知り合った頃は、
ミリーはいっしょに働いていた女子高生に感化されて、元気な子馬だっ
た。今、ミリーはサラブレッドだった。
「それに副業だったら」と、ミリー。「アニーが言ってたわ。ピーター

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5
























































は夜間のデリバリーで週350ドル稼ぐんだって。来週、新しい車を買
うそうよ。聞いてるの?」
「アニーとピーターは新しい車を買おうとしている」と、サイモン。繰
り返した。
「そうよ!わたしの言うことをもっと聞いてほしいわ。今は、8時半す
ぎよ。あなたも副業かなにかしなさいよ!」
 サイモンは、話しながら歩いているミリーのネグリジェ姿を美しいと
感じていた。たぶん、仲良くする時間はあったかもしれない。しかし、
サイモンはその考えを捨てた。動きだす必要があった。それに、ミリー
の方はまったく違うふうに感じていた。
 サイモンは、立ち上がり、地下室の1番遠い壁の本棚へ行った。本棚
は、高校時代に作ったもので卒業制作だった。サイモンは、作業場での
できごとを除いて、普通の高校生だった。そこでサイモンは、のみを使
っていて手をすべらして、ひどい傷を負った。
 高さ6フィートの本棚は、板がずれていたり汚れがあったが、サイモ
ンの宝物だった。
 サイモンは、数千冊の本や雑誌を集めていた。もっと多くの本を持つ
者はいるが、だれも自分の本をそんなに愛してはいない。サイモンは、
すべての本を読んでいて、大半は2回以上読んでいた。お気に入りのシ
ーンを、パッとひらくことができた。

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7
























































 本棚には、古典が並んでいた。最高のものばかりで、残りはガレージ
に積み上げらたダンボール箱の中だった。
 本棚に駆け上がれば、現実の作りかけの室はぼんやりかすみ、指を触
れれば、別世界へのパスポートが手に入った。
 そこは、男が男であった世界、女にも会えた。サイモンはずっと都会
だった。西部劇はお呼びでなかった。SFは子どもだまし。ノンフィク
ションは教科書を読むのと同じ。サイモンのライブラリーはすべて、タ
フガイ専門だった。そこでは、トミーガンは音楽をかなで、ヒーローは、
相手のアゴにパンチを食らわせかならず報復した。
 週間誌名でいうと、ブラックマスク、ダイムディテクティブ、クライ
ムバスター、ギャングワールド、スパイシーディテクティブ、スリリン
グディテクティブ、それに、ディテクティブフィクションだった。
 ほとんどが破れやすいパルプ雑誌なので、破らずにひらくことはでき
なかった。しかし、表紙を見ただけで、引き金を引くレースウィリアム
スや、弾丸をかわすコンチネンタルオプや、警官を出し抜くマックスラ
ーティンを見ることができた。
 ほかにペーパーバックスやハードカバーの本があった。サイモンがパ
ルプ雑誌で出会った者たちの冒険の続き、ハードボイルドものだった。
 サイモンは自分の情熱に気づいた頃、別のミステリーも読んだ。しか
し、エラリースタンリーガードナーのペリーメイソンは、レスターレイ

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9
























































スと相性が悪かった。ナガイオマルシャのロドリックアレインは、あま
りに紳士づらしすぎだった。英国ものにも問題があった。シャーロック
ホームズからネイランドスミスやジェームスボンドにいたる系列だ。彼
らは、高級料理より高いフランスワインを飲んで、殴り合いより、お茶
を飲むことに時間をいていた。
 ジョンダルマス、セリーニスミス、レースウィリアムス、マイクハマ
ー、マイクシャイン、リューアーチャー、ジョーガル、ディックドナヒ
ュー、ピートウェニック、オスカーセイル、チェスタードラム、そして
もちろん、キングたち。コンチネンタルオプ、サムスペード、トラビス
マクギー。フィリップマーロー、それに、レッドダイアモンド。拳銃と
女とガッツの冒険もの。
 サイモンが朝読んでいたのは、レッドダイアモンドだった。ダイアモ
ンドは、無駄口をたたいて時間をつぶしたりはしなかった。さまざまな
口径の拳銃を流暢にりゅうちょう使いこなした。いつも男のことや女のことを思い、
自分の義務を果たした。レッドダイアモンドは、冒険世界の最後のヒー
ローだった。なんてやつだ!
 サイモンは、本棚から1歩下がって、タイトルを読み上げた。トリガ
ーハッピー、ブルードオンマイフィスト、マイジョブイズマーダー、テ
ラーインマイトレード、クリムゾンコープス、キラーアトザビーチ、レ
ディインザレイク。サイモンは、火薬のにおいをかげた。

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 もう1歩さがると、雑なつくりの家屋が目に入った。ヒックスビルの
未完成なままの雑なつくりの地下室。
 サイモンは、この42年間毎日、別世界へのドアを捜して階段を上が
っていた。自分のイスに戻ってリラックスし、フィフィがどうなったか
ダイアモンドが語ってくれるのを心待ちにしていた。
 未知の部分があったわけではなかった。この本は14回も読んだ。も
しも本を落としたら、そうしないよう注意していたが、本は自動的にな
んども読んだ最高のシーンをひらいただろう。
 階段を上がりながら、1歩づつ足元で音がするのは、サイモンの体重
と雑なつくりの家のせいだった。
 そこは、前はロングアイランドの湿地帯だった6エーカーの土地に建
てられた同じ造りの20区画のひとつだった。土地全体が徐々に、もと
の湿地帯に戻りつつあった。すべての家屋は、1年に1インチづつ沈下
していた。
 サイモンの家は、中でももっとも沈下のスピードが速かった。それで
お隣りさんたちに、屋根裏を地下室に改造しているのかとからかわれた。
笑い事ではなく、天候がどうあれ家屋の荒廃はひどく、言い返す言葉も
なかった。
 家は、7室の農場タイプの造りで、粗雑な木材で建てられていた。そ
のため建設会社は、連邦大陪審の調査局に犯罪と認定されて、業界の粗

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雑な見本とされた。建設会社の2人の証人は殺され、3人目は、家を建
てたすべての記憶がなくなったと主張して、カナダに逃亡した。
 証人たちになにがあったかを新聞で読んだあと、家主たちは、ここに
住み続けることにした。しっくいはひび割れて、壁はクレープのように
薄く、風が吹けば、家はきしんだ。
 今では、14軒しか残っていなかった。6軒は、建設会社の親類の無
免許の電気工事ミスで、電気系統から出火して焼失した。この親類の会
社は、業界から追放された。家の契約書をよく読むと、家の改築費は家
主の負担となっていた。
 サイモンは、家の改築に9千ドル使った。地下室に室内プールのよう
な広い空間を作り、屋根裏のはりを補強し、シロアリが出ないよう駆除業
者に予防処置をしてもらった。
 家は、7年たった。
 
               ◇
 
「おはよう、ダディ」と、ショーン。階段を上がってきたサイモンに。
ショーンは、目はキラキラして、笑顔は温かく、18才の体に無駄な脂
肪はなく、歩くときも背筋をピンと伸ばしていた。母親と同じように足
音は静かだった。

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「体調は、どうです?」と、ショーン。
「いいよ、ショーンは?」と、サイモン。
「すばらしいです!母さんにサンドイッチを急ぐよう言ってください!
今日、授業の前にコンピュータクラブのミーティングがあって、遅れた
くないんです。でも、朝食は食べたいので!」
「分かった」と、サイモン。
「よろしく」と、ショーン。急いで出て行った。
 会話は、へたなテレビコマーシャルのようにいつもぎこちなかった。
息子とはこれといった話題がなかった。完璧な人間になにを話したらい
いのだろう?
 たぶん、完璧ではなかったのだろう。しかし、それに近かった。ショ
ーンは、輝かしかった。フォーチュン500社の企業の2社から、すで
に内定が出ていた。初任給は、5万ドルだそうだ。ショーンは、東海岸
のチェス大会で5位だった。フランス語とスペイン語に堪能たんのうだった。ま
た、サイモンにも理解できない電子回路の特許を1つ持っていた。ショ
ーンは、ほんの3時間で、その原理と開発の経緯を話してくれたが、サ
イモンには、やはり理解できなかった。
 しかしショーンは、科学に夢中のインテリというわけではなかった。
野球チームではピッチャーで、大学のフットボールチームでは第2クォ
ーターバックだった。ショーンは、サイモンより1インチ背が高く、6

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フィート2インチで、20ポンドはスマートだった。ショーンは、アス
リートらしいしなやかさで、すばやく動いた。
 ショーンは、男子のあいだで有名で、女子には人気があった。カリス
マ性があって、健康で、みんなから好かれた。サイモンは、みすぼらし
い父親から完璧な息子が生まれたことが不思議だった。
 ショーンは、タクシー運転手の父親のことをどう思っているのだろう?
そもそもショーンは、父親のことを考えたことがあるのだろうか?
 サイモンが居間を通ると、キーンが描いたポップな瞳がひとみ笑いかけた。
ミリーの自慢は、そうした室内装飾だった。サイモンには目障めざわりだった
が、口出しはしなかった。そのうちもっと資金を出せるようになれば、
上品な装飾に変わってゆくだろう。
 サイモンは、2階のバスルームに入ってヒゲをり始めた。
「あなた、バスルームにいるの?」と、ミリーの声。バスルームの薄っ
ぺらなドアを通して聞こえた。
 安全カミソリが、泡だらけのサイモンのアゴですべって皮膚をキズつけ
た。グリーンのバスローブに、血が数滴すうてきしたたった。
「ああ、終わったよ」と、サイモン。ティッシューで傷口を押さえて、
出てきた。
「ありがとう、あなた!」と、ミリー。階下から。
 ミリーがバスルームを使う時間に、サイモンは口をはさむことはなか

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った。なにか言えば、ミリーはもっと広い家で機能もいろいろあればと
いったサイモンの稼ぎの話になるからだ。
 ヘビがくねるように、ミリーの不平もくねり、サイモンの稼ぎが少な
い、同年代のほかの人ならもっと稼ぐ、もっと成功した男と結婚できた
のに、さらに、ミリーのバスローブの不満にまでおよんだ。
 サイモンは、未完成の地下室にある未完成のバスルームに退却するの
が1番だった。
 地下室に降りるのは、いつでもすぐできた。そこは、サイモンの本が
1番近くにある場所だった。
 本は、もとのまま、今、読んでいるページがひらかれたままだった。
本をそんなふうに十字架に張りつけれた異教徒のように残してゆくのは、
不注意かもしれない。
 本を持って、小さなバスルームに入った。便座を閉じてすわり、ペー
パーバックの表紙のイラストを眺めた。
 ダイアモンドインザローのタイトルの赤、女のブロンドに目のブルー。
レッドダイアモンドは、女に腕をまわし左手で肩をつかみ、右手で煙の
出ている38口径を握って、歯を見せて不敵な微笑ほほえみを浮かべていた。
 表紙を眺めていると、サイモンの周囲はぼんやりかすみ、読み始めた。
 
               ◇

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21
























































 
 オレは、やつがかぶっているフードの布で靴をみがきたかったが、玄関
マットを自由に使えたのは、銃身を短く切ったショットガンを手にした
やつの方だった。
「壁を向け!」と、やつ。醜いみにく二銃身のショットガンでこづいた。
 オレは、言われたとおりにした。オレは壁を見た。それが、オレが見
た最後のものになるかもしれなかった。額に入れられたフランクリンル
ーズベルトの肖像画が、ベージュの壁にクギでるされていた。
 ここは、スマートに死ねる場所ではなかった。黒の虫がはいまわる、
ボウェリの安宿。検死官が壁から死体をこすり落としているときに、ど
こに泊まっていたかなんてささいないことだ。
 オレは、ショットガンの若造の方を向いた。貧乏な独身男の無精ひげ
についた2つのビーズ。
「向こうをむけ!」と、やつ。怒鳴ど なった。
「どうする気だ?つのか?」
 やつは、オレの予想どおりだった。
「引き金をひくときに、うしろにステップバックした方がいいよ!」
 若造のショットガンがピクリとした。「なぜ?」
「引き金をひいたら、200ポンドのひき肉をだれかがふざけてぶちま
けたみたいになるからさ」

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 ショットガンがすこしふるえだした。
「新しいスーツに、オレの脳や目玉や腸をぶちまけたくないだろう?恋
人に会ったら、まるでゾンビみたいって言われるぜ!」
「黙れ!」と、やつ。大声で。ショットガンをもつ手がふるえ、上唇をうわくちびる
かんでいた。
「今だ、て!」と、オレ。やつのフード越しに大声で。これは、古い
手だったが、やつはひっかかった。
 やつが振り向いた瞬間、オレは壁のフランクリンルーズベルトの肖像
画をつかんで、やつの頭に振りおろした。固い木枠がやつのショットガ
ンを払い落とした。
 オレは、2回だけやつをたたいた。やつは、まるで大人の仕事をまか
された子どものようだった。眠らせたあとは、ずっと幼く見えた。
 肖像画は、引き裂かれて床に落ちていた。いい目的のために引き裂か
れたのだから、フランクリンルーズベルトは許してくれるだろう。
 大統領に命を救われた経験のある人間は、そんなにはいないはずだ。
 
               ◇
 
 玄関のドアチャイムが、「雨に歌えば」をかなでた。サイモンは、ファ
ンタジーから戻った。ドアチャイムを聞かなかったことにしようとした

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25
























































が、3回目が鳴り出した。
「今、出ます!今、出ます!」と、サイモン。大声で。本をトイレタン
クの布カバーの上に置いた。
 階段を上がりながら、またすぐ本に戻れるだろうと考えた。感じとれ
るのは、漂う雰囲気だった。サイモンは、プロットは心では知っていた
が、多くのところは分からなかった。だれでも人を殺すときは正当な理
由があった。スペードやマーローは、最後でちゃんと説明した。しかし、
なにが起こっているのか分かっている者はいるだろうか?そんなことを
気にする者がいるだろうか?チャンドラーががせたのは、ジャカラン
ダの香りだった。あるいは、ハメットが聞かせたのは、ファットマンの
笑い声だった。それは、サイモンがすべり込む世界だった。意味がある
かどうかなんて、気にする者がいるだろうか?
 メロニーが玄関にいた。サイモンは自分の娘のことを、いつもひざに
飛び乗ってきて物語をせがむ、おさげの幼い娘として記憶していた。
 目の前の16才の少女が、サイモンがおぼえてる幼い娘と同一人物だと
は信じがたかった。
 メロニーの目は、徹夜明けのくまができて半分閉じかかっていた。庭
師が使うようなこてで塗られた化粧は、顔を引き立たせもせず、脂ぎあぶら
たブラウンの長髪には、グリーンの筋が入っていた。メロニーの着てい
る白のシルクのシャツはローカットすぎて、サイモンは不快感をおぼえ

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27
























































た。
「ロジャーよ」と、メロニー。後ろに立っていた若者を紹介した。「ロ
ルフをやってるの」
「へぇ、プロのゴルファー?」と、サイモン。
 ロジャーは、まったくアスリートには見えなかった。顔は太ってだら
しなく、肌も青ざめてニキビだらけだった。頭は、サイモンにはゴルフ
ボールに見えた。
「いや、ゴルフでなく、ロルフです」と、ロジャー。体型と同じくらい
不快に鼻をならして。「ロルフ式マッサージです」ロジャーは、メロニ
ーの後ろに回って身をかがめた。
 サイモンは、ゴルフボール頭の首筋をたたいてやりたい気がした。こ
ういうことは、前にもあった。思い出すのは、ミリーがメロニーの味方
をする見苦しい場面ばかりだった。サイモンには、娘の突飛なおこない
を見るのがミリーの秘密の喜びなのではないかとさえ思えた。
 ロジャーは、メロニーが落ち込んだときに元気を与えてくれる奇人変
人の行者の長い列の最新の者に過ぎなかった。ヨガ行者、超能力者、秘
密結社、それにわけの分からない新興宗教。彼らは、メロニーのメッカ
である寝室にこもってドアも閉めて宗教的儀式をした。
「カギはどうしたんだい、ヤングレディ?」と、サイモン。メロニーが
家に入ろうとするのを邪魔しながら。

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 メロニーがそばに寄ってきたので、サイモンは後ろに下がった。
「ロジャーとは、クラブで会ったのよ。家に行こうというので、カギを
渡したの。あとで、いっしょに過ごすうちに、ふたりにはカルマがあり
そうだったの」
 カギを変える時期だと、サイモンは考えた。ロジャーは横を向いてニ
ヤニヤしていた。
「そのごほうびが、ペテン教師というわけか」と、サイモン。
「ひどいわ!」と、メロニー。ロジャーの手を引いて、父親の前を通っ
て家に入った。
 ふたりは、階段を上った。メロニーが先に、ロジャーは後ろからジー
ンズを見ながら。
 サイモンは、ドアをバタンと閉めると、家じゅうがゆれた。
 ミリーの犬はペキニーズで、頭に黄のリボンをつけてコーチの下から
ドアに向かってキャンキャンほえながら走ってきた。見たところ、侵入
者はいなかった。犬用のドアを入ると、サイモンのひざに跳びついて攻
撃しようとした。
「ボッシーをひっくり返して、どうしようというの?」と、ミリー。階
段の上からどなった。
「べつに」と、サイモン。ボッシーの攻撃をかわしながら。ボッシーは
指にかみつこうとした。サイモンとボッシーは、いつも戦っているボク

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31
























































サーどうしのように、相手の攻撃を容易に見抜いてかわせた。
 サイモンはボッシーの首筋をつかもうとすると、ボッシーは後ずさり
してサイモンの左ヒザをかんだ。ボッシーの毛をつかむと、ボッシーは
キャンキャンないた。
 ミリーは階段をドタバタ降りてくると、ボッシーを抱き上げてサイモ
ンをにらんだ。
「あなたは動物がきらいなの?やめなさい!」と、ミリー。言葉に毒を
込めて。ボッシーは、ミリーの腕のなかからサイモンをあざ笑った。
 ミリーは寝室に戻り、ボッシーを犬用のベッドに寝かせた。サイモン
は、2階のバスルームでその日必要な用事を済ませた。
 それから寝室で、ボッシーにクークー言っているミリーとは言葉をか
わさずに、服を着た。サイモンは、赤と黒のチェックのフランネルのシ
ャツを着て、すこしきつめのブルーのズボンに、縦じまのナイロンの靴
下をはいた。靴下は、伸びきって穴があきそうだったが、靴で隠して、
腰にはベルトを巻いた。
 サイモンは「行ってくるよ」と言いそうになった。ミリーはボッシー
に夢中でサイモンには知らんぷりだった。
 サイモンが通り過ぎるとき、メロニーのドアは閉まっていた。
 地下室に降り、本の前を通るときにしばらくのお別れを言って、地下
室からガレージに直接出られるドアからガレージに出た。

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33
























































 2台の車があった。ミリーのは、3年前に買った、ガソリンを食うス
テーションワゴンで、サイモンのはキャブだった。
 キャブは、ニューヨーク市標準の明るい黄でオレンジの筋が入ってい
た。12万3千マイル走っていて、5年たっていた。すべての部品は、
1回以上交換していた。
 サイモンは、オーナードライバーだった。オーナードライバーは、ニ
ューヨーク市の11、787台のタクシーのうち5千台だった。タクシ
ーは、街中で乗客を拾うだけで、5万6千ドル稼げた。
 15年間、サイモンは、残りの6、787台の1台をやっていて、1
日10時間、雇われの身だった。3年前、独立する権利を得て、中古キ
ャブを買った。しばらくは支払いに追われていたが、やっと自分のボス
になれた。
 エンジンをかけるのに6回クランクをまわした。ウィンドウブレーカ
ーを引いて、運転席に座ると、クリップボードを調整して、ガレージの
ドアをあけると出て行った。
 ミリーは、エンジンをかける前にガレージのドアをあけるようきつく
言っていた。
「あなたはそのうち、1酸化炭素中毒で死ぬわよ!わたしに借金を残し
て!」それが、ミリーのお決まりの文句だった。
 ミリーは、サイモンがキャブに乗ってるところを近所の人たちに見ら

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35
























































れるのがイヤなのが、理解できなかった。多くは、ただの会社員で、そ
れ以外は、中古車販売とかテレビの修理人だった。彼らは、オーナード
ライバーとただのタクシー運転手との区別が分からなかった。
 サイモンは、ガレージのドアをあけっぱなしで街へ繰り出して行った。
それも、ミリーは気に入らなかった。ボッシーが逃げてしまうかもしれ
なかった。サイモンには、好都合だった。
 サイモンは、すばやく運転して、家や近所からすぐに遠ざかった。今
日はいい日だった。だれにも仕事に出るところを見られなかった。
 どんな日が、いい日だったか?空港までの客?かわいいミニスカート
の客?100ドルのチップ?酔っ払いがだれも吐かなかった?ほかのキ
ャブに客を奪われなかった?礼儀正しいほかのドライバー?
 キャブは、ムチを使わずに都心までの道を知っている信頼できる愛馬
のように、ロングアイランドハイウェイに入った。しかしすこし疲れた
老馬で、道路の穴によろめき、サイモンがアクセルを踏むごとに咳き込
んでいた。
 窓をあけると、風が顔にあたった。スピードは、「世界最大の駐車場」
として有名な道路だけあって、ほかでは味わえない喜びだった。サイモ
ンの数少ない喜びのひとつで、自分の時間として、あえてほかのキャブ
のようにラッシュアワーの混雑にさからったりはしなかった。キャブのド
ライバー以外は、だれも理解できないだろう。サイモンは、行きたいと

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37
























































ころどこへでも行けた。ブルックリンにさえ行けた。
「おっと!」と、サイモンは考えた。「本を持ってくるのを忘れた!」
ハードボイルド探偵といっしょなら、1日がすこしはましになった。た
まに、ウェストサイドハイウェイの片側に停めて本を読んでいた。ある
日サイモンは、走って仕事をしたのは2時間だけだった。ミリーは、サ
イモンの売上げがたったの23ドルだったのを見て、怒りくるった。
 ミリーが正しいことは、分かってはいた。サイモンには、カネはどう
でもよかった。35ドルの客がいても、虹の向こうに金のつぼはないこ
とが分かっていた。あるのは、胆石くらいのもんだ。サイモンは、仲間
と週末に草野球をするのをやめた。ミリーと週1回、ダンスをしにゆく
のもやめた。タフガイの物語だけが、唯一の情熱となった。
 選択は、ふたつにひとつだった。情熱に従うか、今あるもので満足す
るかだ。今まではひどかった。家、家族、結婚、幸せとは言いがたいも
のが続いていた。サイモンの若い頃のプランとは正反対だった。







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39
























































            2
 
 勤務中の表示は消したまま、南の都心へ向かうミッドタウントンネル
に入った。14番ストリートのバルモラルカフェの前の、長い黄の列に
キャブを停めた。
 回転ドアを押して入ると、騒々しい人の声━━━おもに男の声がして、
トレイをガタガタさせたり、シルバーやそれ以外の服の流れにぶつかり
そうになった。葉巻やタバコの煙が、モクモク上がっていた。
 サイモンは、カウンターに通じる列の一番後ろに並んだ。コーヒーの
おかわりをついでいる女店員、それを見ている店長、一日中カフェで時
間つぶしをして寝込んでいる老人、わずかな会社員、それに浮浪者のよ
うな人々であふれかえっていた。
 騒々しさの中であいさつする大声は、タクシー運転手同士が互いを見
つけてのものだった。雨の日に、唯一ニューヨークでタクシーを見つけ
られる場所は、バルモラルカフェしかないというのは、有名な話だった。
 サイモンは、すり減ったプラスチックトレイを1枚取ると、そのまま
ステンレス製のカウンターの列を進んだ。
「ハイ、サイ!どうだい?」と、ベニー。自分のトレイをスムーズにす
べらしながら。
 ベニーは、5フィートしかないからだで、よく知られた病気━━━い

42

41
























































くつかは未知の━━━病気と戦っていた。24年前からサイモンはベニ
ーを知っていた。ベニーは、昼間の仕事、つまり不平を言うチャンスを
のがすことはなかった。
 サイモンの返事を待たずに、ベニーは不平の数々を並べた。
「わしかい?元気さ。なんて、たいしたことないさ。ちょっと言えな
い苦しさがあったんで、医者に診てもらったら、わしの腎臓じんぞうを見て、わ
しが生きてるのが不思議だってぬかしおった。わしの心臓は━━━」
「失礼!」と、サイモン。ベニーの話をさえぎって、列の先へ進んだ。
ベニーが腸の話になる前に、去りたかった。
 サイモンの前の太った男は、サイモンが目をつけていたチーズケーキ
をトレイにのせた。最後の一片だった。サイモンは、カウンターの向こ
うにいる純白のエプロンの店員に、新しいチーズケーキがあるかどうか
かなかった。バルモラルカフェのサービスが悪いことは有名だったか
らだ。
 サイモンは、ブラックコーヒーとまずそうなアップルパイでがまんし
た。
「サイモン、足元に気をつけろよ!」と、ベニー。サイモンが代金を払
うときに聞こえた。
 サイモンは、混んだレストランでテーブルの間の狭いスペースを進む
うちに、コーヒーのほとんどをトレイにこぼした。

44

43
























































 大きなポットの模型の横のテーブルには、ギリシャ人のニックに、ペ
ドロ、アレックス、エディフォングが座っていた。サイモンがイスにつ
くと、会話がしばらく中断して、サイモンにあいさつした。エディは、
もっともやせていて、プレートの食事を終えていたが、話に夢中だった。
「それで、オレは言ったんだ、女は5番街の水道橋にいるって。女はし
ゃべりながら歩いていた。最後に見たときは、ベルモントのジョッキー
といっしょだった。その後はどこへ行ったか━━━」
 ペドロは、大きなゲップをしたのでみんな笑った。エディは、たまに
鋭い勘で競馬を的中させるので、ノミ屋に足を折れれないよう注意して
いた。
 ノミ屋は、ダーティドムという太った男で、店の反対側にいた。お客
たちは、ドムのところに来て、たましいを賭けていった。ダーティドム
は、ロングアイランドの北の25エーカーの土地に住んでいた。タクシ
ー運転手たちは、アパートか抵当入りの小さな家に住んでいた。サイモ
ンは、損することもギャンブルが悪だということも知っていたので、誘
惑に負けることはなかった。
「サイ!来月から、いよいよオレたちの無線グループを始めるぜ!」と、
ペドロ。
「へぇ~」と、サイモン。コーヒーをすすりながら。
「10台から、割引つきで始める」と、ペドロ。「街で2番目に忙しく

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なるぜ。サイも配車係から無線を受け取れるよ。そのへんの酔っぱらい
からでなく、ウォールストリートからな」
「チップもねぇのか?」と、ギリシャ人のニック。
「街でひとりでいるときに」と、ペドロ。ニックを無視した。「無線で
助けを呼ぶこともできる。よたもんにナイフを首に突きつけられたらど
うする?」
「ああ、大丈夫だ」と、ニック。「ビビッて、すぐにカネを出すよ」
 アレックスは、グループの最年長で61だが、なにか言った。アレッ
クスがしゃべることはめったになかったので、テーブルのみんなは静か
になった。
「先週、またピストル強盗にあった」と、アレックス。ほとんど聞きと
れない声で。「白人だった。ひどいだろ?シフトの終わるときに。87
ドルやられた」アレックスは、また黙ってコーヒーをすすった。
 男たちは、泥棒の話になった。ニックとペドロの話は、まゆつばもの
だった。タクシーの運転席は、弾が貫通できないパーティッションで区
切られていたので、安全だと感じていた。
「独房にいるかんじだ」と、エディ。「それでいつも持ってる」
「なにを?」と、サイモン。
「38口径さ。波止場の男から手に入れた。75ドルもした。強盗され
そうになったときに、パンチを食らわせてやった」

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「ルイもそうだった」と、ニック。ルイは、6回ピストル強盗にあった。
それで拳銃を手に入れて、7回目にやっつけようとして、逆にやられた。
ルイの葬式は、3ヶ月前だった。
 みんなが昔の仲間を哀悼あいとうしていると、沈黙をサイモンが破った。
「オレたちは、誰からも一目もおかれてない!」と、サイモン。
「ロドニーダンガーフィールドは?」と、ニック。
「やつも含めてだ。ガキとケンカしてるようなもんだ」と、サイモン。
 
 
 
                            (つづく)










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