レッドダイアモンド
            原作:マークショア
            アランフィールド
             
            プロローグ
             
 45口径のぶっとい弾丸が、かわいい女に口笛を吹くように頭をかす
めたとき、オレは暗くなった床にバタンと伏せた。さらに2発がかすめ
背後の壁にのめり込んで、ズシンズシンと音がした。
 街のアラブ人の店で飲んだ安物のウィスキーが、オレの動きをのろく
していた。オレはあわててトレンチコートの中の拳銃を手探りした。拳
銃の台尻に触れたとき、ホットなポーカーでロイヤルフラッシュがオレ
の手にすべり込んできたように感じた。目が暗闇に慣れると、ドアがひ
らいてギラギラした光が射しこんだ。ドアに、女のシルエット。



 

2

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「レッド?」と、女。
「伏せろ!」オレは、大声で叫んで、体をひるがえして、銃の閃光が見
えた場所に2発撃ちこんだ。
 38口径を食らった男のうめき声がした。
 フィフィはドアに立ちつくしていた。背後からの光が、フィフィのブ
ロンドを太陽のかさのように見せていた。フィフィの大きな目のブルーは、
なにも知りたくないというかのようだった。
「だいじょうぶ」と、オレは、震えて立っているフィフィのところへゆ
っくりと歩いていった。「すべては予定どおりだ!」

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「そこにいるのは知ってるのよ!」と、女の声。それは、とげとげしい
皮肉が込められていて、フィフィのやさしいハスキーボイスとは似ても
似つかなかった。ファンタジーは終わりだ。サイモンは机の上の本を閉
じた。
 ミリーは、やわらかいピンクのスリッパで音もなく歩いてきて、未完
成の地下室で、薄汚れてはいるが詰め物がいっぱいで安楽そうな作りか
けのイスにいるサイモンを見つけた。サイモンは背筋をのばし、これか
ら始まる長い小言に耐える心の準備をした。

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3





「あなたとそのゴミのような本!」と、ミリー。「ほかのだんなはみん
なまともな趣味を持ってるわ!家具木工とかにすれば、あなたもそのイ
スを直せるのよ?でなけりゃ、コイン収集とか。ジャスパーマードック
のコレクションは、2万ドルの価値があるって知ってた?」
 ミリーは、サイモンが驚いて「ふ~ん」と言うまで待った。
「ジャスパーは3千ドルしか使わなかったって、ローラが言ってたわ。
今、その価値が7倍になったのよ!」と、ミリー。「ジャスパーは、前
にそれらを売ってほしいと言われたそうよ。それらを売ることもできる
し、新たに買うことも━━━」
 がみがみ言われながらも、サイモンはミリーをすばらしい女性だと感
じていた。化粧なしで目のまわりに眠たそうなくまがあっても、ミリー
は美しかった。
 40才にして、ミリーは成熟した女性の美しさをもった。19年前に
結婚した頃より美しかった。19年が信じ難かった。
 ミリーは年とともに数ポンド太ったが、うまく分散されていた。濃い
赤褐色の髪が顔を引き立てていて、ミリーもそれに気づいていた。サイ
モンが、レストランでウェイトレスをしていたミリーと知り合った頃は、
ミリーはいっしょに働いていた女子高生に感化されて、元気な子馬だっ
た。今、ミリーはサラブレッドだった。
「それに副業だったら」と、ミリー。「アニーが言ってたわ。ピーター

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は夜間のデリバリーで週350ドル稼ぐんだって。来週、新しい車を買
うそうよ。聞いてるの?」
「アニーとピーターは新しい車を買おうとしている」と、サイモン。繰
り返した。
「そうよ!わたしの言うことをもっと聞いてほしいわ。今は、8時半す
ぎよ。あなたも副業かなにかしなさいよ!」
 サイモンは、話しながら歩いているミリーのネグリジェ姿を美しいと
感じていた。たぶん、仲良くする時間はあったかもしれない。しかし、
サイモンはその考えを捨てた。動きだす必要があった。それに、ミリー
の方はまったく違うふうに感じていた。
 サイモンは、立ち上がり、地下室の1番遠い壁の本棚へ行った。本棚
は、高校時代に作ったもので卒業制作だった。サイモンは、作業場での
できごとを除いて、普通の高校生だった。そこでサイモンは、のみを使
っていて手をすべらして、ひどい傷を負った。
 高さ6フィートの本棚は、板がずれていたり汚れがあったが、サイモ
ンの宝物だった。
 サイモンは、数千冊の本や雑誌を集めていた。もっと多くの本を持つ
者はいるが、だれも自分の本をそんなに愛してはいない。サイモンは、
すべての本を読んでいて、大半は2回以上読んでいた。お気に入りのシ
ーンを、パッとひらくことができた。

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 本棚には、古典が並んでいた。最高のものばかりで、残りはガレージ
に積み上げらたダンボール箱の中だった。
 本棚に駆け上がれば、現実の作りかけの室はぼんやりかすみ、指を触
れれば、別世界へのパスポートが手に入った。
 そこは、男が男であった世界、女にも会えた。サイモンはずっと都会
だった。西部劇はお呼びでなかった。SFは子どもだまし。ノンフィク
ションは教科書を読むのと同じ。サイモンのライブラリーはすべて、タ
フガイ専門だった。そこでは、トミーガンは音楽をかなで、ヒーローは、
相手のアゴにパンチを食らわせかならず報復した。
 週間誌名でいうと、ブラックマスク、ダイムディテクティブ、クライ
ムバスター、ギャングワールド、スパイシーディテクティブ、スリリン
グディテクティブ、それに、ディテクティブフィクションだった。
 ほとんどが破れやすいパルプ雑誌なので、破らずにひらくことはでき
なかった。しかし、表紙を見ただけで、引き金を引くレースウィリアム
スや、弾丸をかわすコンチネンタルオプや、警官を出し抜くマックスラ
ーティンを見ることができた。
 ほかにペーパーバックスやハードカバーの本があった。サイモンがパ
ルプ雑誌で出会った者たちの冒険の続き、ハードボイルドものだった。
 サイモンは自分の情熱に気づいた頃、別のミステリーも読んだ。しか
し、エラリースタンリーガードナーのペリーメイソンは、レスターレイ

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スと相性が悪かった。ナガイオマルシャのロドリックアレインは、あま
りに紳士づらしすぎだった。英国ものにも問題があった。シャーロック
ホームズからネイランドスミスやジェームスボンドにいたる系列だ。彼
らは、高級料理より高いフランスワインを飲んで、殴り合いより、お茶
を飲むことに時間をいていた。
 ジョンダルマス、セリーニスミス、レースウィリアムス、マイクハマ
ー、マイクシャイン、リューアーチャー、ジョーガル、ディックドナヒ
ュー、ピートウェニック、オスカーセイル、チェスタードラム、そして
もちろん、キングたち。コンチネンタルオプ、サムスペード、トラビス
マクギー。フィリップマーロー、それに、レッドダイアモンド。拳銃と
女とガッツの冒険もの。
 サイモンが朝読んでいたのは、レッドダイアモンドだった。ダイアモ
ンドは、無駄口をたたいて時間をつぶしたりはしなかった。さまざまな
口径の拳銃を流暢にりゅうちょう使いこなした。いつも男のことや女のことを思い、
自分の義務を果たした。レッドダイアモンドは、冒険世界の最後のヒー
ローだった。なんてやつだ!
 サイモンは、本棚から1歩下がって、タイトルを読み上げた。トリガ
ーハッピー、ブルードオンマイフィスト、マイジョブイズマーダー、テ
ラーインマイトレード、クリムゾンコープス、キラーアトザビーチ、レ
ディインザレイク。サイモンは、火薬のにおいをかげた。

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 もう1歩さがると、雑なつくりの家屋が目に入った。ヒックスビルの
未完成なままの雑なつくりの地下室。
 サイモンは、この42年間毎日、別世界へのドアを捜して階段を上が
っていた。自分のイスに戻ってリラックスし、フィフィがどうなったか
ダイアモンドが語ってくれるのを心待ちにしていた。
 未知の部分があったわけではなかった。この本は14回も読んだ。も
しも本を落としたら、そうしないよう注意していたが、本は自動的にな
んども読んだ最高のシーンをひらいただろう。
 階段を上がりながら、1歩づつ足元で音がするのは、サイモンの体重
と雑なつくりの家のせいだった。
 そこは、前はロングアイランドの湿地帯だった6エーカーの土地に建
てられた同じ造りの20区画のひとつだった。土地全体が徐々に、もと
の湿地帯に戻りつつあった。すべての家屋は、1年に1インチづつ沈下
していた。
 サイモンの家は、中でももっとも沈下のスピードが速かった。それで
お隣りさんたちに、屋根裏を地下室に改造しているのかとからかわれた。
笑い事ではなく、天候がどうあれ家屋の荒廃はひどく、言い返す言葉も
なかった。
 家は、7室の農場タイプの造りで、粗雑な木材で建てられていた。そ
のため建設会社は、連邦大陪審の調査局に犯罪と認定されて、業界の粗

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雑な見本とされた。建設会社の2人の証人は殺され、3人目は、家を建
てたすべての記憶がなくなったと主張して、カナダに逃亡した。
 証人たちになにがあったかを新聞で読んだあと、家主たちは、ここに
住み続けることにした。しっくいはひび割れて、壁はクレープのように
薄く、風が吹けば、家はきしんだ。
 今では、14軒しか残っていなかった。6軒は、建設会社の親類の無
免許の電気工事ミスで、電気系統から出火して焼失した。この親類の会
社は、業界から追放された。家の契約書をよく読むと、家の改築費は家
主の負担となっていた。
 サイモンは、家の改築に9千ドル使った。地下室に室内プールのよう
な広い空間を作り、屋根裏のはりを補強し、シロアリが出ないよう駆除業
者に予防処置をしてもらった。
 家は、7年たった。
 
               ◇
 
「おはよう、ダディ」と、ショーン。階段を上がってきたサイモンに。
ショーンは、目はキラキラして、笑顔は温かく、18才の体に無駄な脂
肪はなく、歩くときも背筋をピンと伸ばしていた。母親と同じように足
音は静かだった。

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「体調は、どうです?」と、ショーン。
「いいよ、ショーンは?」と、サイモン。
「すばらしいです!母さんにサンドイッチを急ぐよう言ってください!
今日、授業の前にコンピュータクラブのミーティングがあって、遅れた
くないんです。でも、朝食は食べたいので!」
「分かった」と、サイモン。
「よろしく」と、ショーン。急いで出て行った。
 会話は、へたなテレビコマーシャルのようにいつもぎこちなかった。
息子とはこれといった話題がなかった。完璧な人間になにを話したらい
いのだろう?
 たぶん、完璧ではなかったのだろう。しかし、それに近かった。ショ
ーンは、輝かしかった。フォーチュン500社の企業の2社から、すで
に内定が出ていた。初任給は、5万ドルだそうだ。ショーンは、東海岸
のチェス大会で5位だった。フランス語とスペイン語に堪能たんのうだった。ま
た、サイモンにも理解できない電子回路の特許を1つ持っていた。ショ
ーンは、ほんの3時間で、その原理と開発の経緯を話してくれたが、サ
イモンには、やはり理解できなかった。
 しかしショーンは、科学に夢中のインテリというわけではなかった。
野球チームではピッチャーで、大学のフットボールチームでは第2クォ
ーターバックだった。ショーンは、サイモンより1インチ背が高く、6

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フィート2インチで、20ポンドはスマートだった。ショーンは、アス
リートらしいしなやかさで、すばやく動いた。
 ショーンは、男子のあいだで有名で、女子には人気があった。カリス
マ性があって、健康で、みんなから好かれた。サイモンは、みすぼらし
い父親から完璧な息子が生まれたことが不思議だった。
 ショーンは、タクシー運転手の父親のことをどう思っているのだろう?
そもそもショーンは、父親のことを考えたことがあるのだろうか?
 サイモンが居間を通ると、キーンが描いたポップな瞳がひとみ笑いかけた。
ミリーの自慢は、そうした室内装飾だった。サイモンには目障めざわりだった
が、口出しはしなかった。そのうちもっと資金を出せるようになれば、
上品な装飾に変わってゆくだろう。
 サイモンは、2階のバスルームに入ってヒゲをり始めた。
「あなた、バスルームにいるの?」と、ミリーの声。バスルームの薄っ
ぺらなドアを通して聞こえた。
 安全カミソリが、泡だらけのサイモンのアゴですべって皮膚をキズつけ
た。グリーンのバスローブに、血が数滴すうてきしたたった。
「ああ、終わったよ」と、サイモン。ティッシューで傷口を押さえて、
出てきた。
「ありがとう、あなた!」と、ミリー。階下から。
 ミリーがバスルームを使う時間に、サイモンは口をはさむことはなか

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った。なにか言えば、ミリーはもっと広い家で機能もいろいろあればと
いったサイモンの稼ぎの話になるからだ。
 ヘビがくねるように、ミリーの不平もくねり、サイモンの稼ぎが少な
い、同年代のほかの人ならもっと稼ぐ、もっと成功した男と結婚できた
のに、さらに、ミリーのバスローブの不満にまでおよんだ。
 サイモンは、未完成の地下室にある未完成のバスルームに退却するの
が1番だった。
 地下室に降りるのは、いつでもすぐできた。そこは、サイモンの本が
1番近くにある場所だった。
 本は、もとのまま、今、読んでいるページがひらかれたままだった。
本をそんなふうに十字架に張りつけれた異教徒のように残してゆくのは、
不注意かもしれない。
 本を持って、小さなバスルームに入った。便座を閉じてすわり、ペー
パーバックの表紙のイラストを眺めた。
 ダイアモンドインザローのタイトルの赤、女のブロンドに目のブルー。
レッドダイアモンドは、女に腕をまわし左手で肩をつかみ、右手で煙の
出ている38口径を握って、歯を見せて不敵な微笑ほほえみを浮かべていた。
 表紙を眺めていると、サイモンの周囲はぼんやりかすみ、読み始めた。
 
               ◇

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 オレは、やつがかぶっているフードの布で靴をみがきたかったが、玄関
マットを自由に使えたのは、銃身を短く切ったショットガンを手にした
やつの方だった。
「壁を向け!」と、やつ。醜いみにく二銃身のショットガンでこづいた。
 オレは、言われたとおりにした。オレは壁を見た。それが、オレが見
た最後のものになるかもしれなかった。額に入れられたフランクリンル
ーズベルトの肖像画が、ベージュの壁にクギでるされていた。
 ここは、スマートに死ねる場所ではなかった。黒の虫がはいまわる、
ボウェリの安宿。検死官が壁から死体をこすり落としているときに、ど
こに泊まっていたかなんてささいないことだ。
 オレは、ショットガンの若造の方を向いた。貧乏な独身男の無精ひげ
についた2つのビーズ。
「向こうをむけ!」と、やつ。怒鳴ど なった。
「どうする気だ?つのか?」
 やつは、オレの予想どおりだった。
「引き金をひくときに、うしろにステップバックした方がいいよ!」
 若造のショットガンがピクリとした。「なぜ?」
「引き金をひいたら、200ポンドのひき肉をだれかがふざけてぶちま
けたみたいになるからさ」

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 ショットガンがすこしふるえだした。
「新しいスーツに、オレの脳や目玉や腸をぶちまけたくないだろう?恋
人に会ったら、まるでゾンビみたいって言われるぜ!」
「黙れ!」と、やつ。大声で。ショットガンをもつ手がふるえ、上唇をうわくちびる
かんでいた。
「今だ、て!」と、オレ。やつのフード越しに大声で。これは、古い
手だったが、やつはひっかかった。
 やつが振り向いた瞬間、オレは壁のフランクリンルーズベルトの肖像
画をつかんで、やつの頭に振りおろした。固い木枠がやつのショットガ
ンを払い落とした。
 オレは、2回だけやつをたたいた。やつは、まるで大人の仕事をまか
された子どものようだった。眠らせたあとは、ずっと幼く見えた。
 肖像画は、引き裂かれて床に落ちていた。いい目的のために引き裂か
れたのだから、フランクリンルーズベルトは許してくれるだろう。
 大統領に命を救われた経験のある人間は、そんなにはいないはずだ。
 
               ◇
 
 玄関のドアチャイムが、「雨に歌えば」をかなでた。サイモンは、ファ
ンタジーから戻った。ドアチャイムを聞かなかったことにしようとした

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が、3回目が鳴り出した。
「今、出ます!今、出ます!」と、サイモン。大声で。本をトイレタン
クの布カバーの上に置いた。
 階段を上がりながら、またすぐ本に戻れるだろうと考えた。感じとれ
るのは、漂う雰囲気だった。サイモンは、プロットは心では知っていた
が、多くのところは分からなかった。だれでも人を殺すときは正当な理
由があった。スペードやマーローは、最後でちゃんと説明した。しかし、
なにが起こっているのか分かっている者はいるだろうか?そんなことを
気にする者がいるだろうか?チャンドラーががせたのは、ジャカラン
ダの香りだった。あるいは、ハメットが聞かせたのは、ファットマンの
笑い声だった。それは、サイモンがすべり込む世界だった。意味がある
かどうかなんて、気にする者がいるだろうか?
 メロニーが玄関にいた。サイモンは自分の娘のことを、いつもひざに
飛び乗ってきて物語をせがむ、おさげの幼い娘として記憶していた。
 目の前の16才の少女が、サイモンがおぼえてる幼い娘と同一人物だと
は信じがたかった。
 メロニーの目は、徹夜明けのくまができて半分閉じかかっていた。庭
師が使うようなこてで塗られた化粧は、顔を引き立たせもせず、脂ぎあぶら
たブラウンの長髪には、グリーンの筋が入っていた。メロニーの着てい
る白のシルクのシャツはローカットすぎて、サイモンは不快感をおぼえ

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た。
「ロジャーよ」と、メロニー。後ろに立っていた若者を紹介した。「ロ
ルフをやってるの」
「へぇ、プロのゴルファー?」と、サイモン。
 ロジャーは、まったくアスリートには見えなかった。顔は太ってだら
しなく、肌も青ざめてニキビだらけだった。頭は、サイモンにはゴルフ
ボールに見えた。
「いや、ゴルフでなく、ロルフです」と、ロジャー。体型と同じくらい
不快に鼻をならして。「ロルフ式マッサージです」ロジャーは、メロニ
ーの後ろに回って身をかがめた。
 サイモンは、ゴルフボール頭の首筋をたたいてやりたい気がした。こ
ういうことは、前にもあった。思い出すのは、ミリーがメロニーの味方
をする見苦しい場面ばかりだった。サイモンには、娘の突飛なおこない
を見るのがミリーの秘密の喜びなのではないかとさえ思えた。
 ロジャーは、メロニーが落ち込んだときに元気を与えてくれる奇人変
人の行者の長い列の最新の者に過ぎなかった。ヨガ行者、超能力者、秘
密結社、それにわけの分からない新興宗教。彼らは、メロニーのメッカ
である寝室にこもってドアも閉めて宗教的儀式をした。
「カギはどうしたんだい、ヤングレディ?」と、サイモン。メロニーが
家に入ろうとするのを邪魔しながら。

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 メロニーがそばに寄ってきたので、サイモンは後ろに下がった。
「ロジャーとは、クラブで会ったのよ。家に行こうというので、カギを
渡したの。あとで、いっしょに過ごすうちに、ふたりにはカルマがあり
そうだったの」
 カギを変える時期だと、サイモンは考えた。ロジャーは横を向いてニ
ヤニヤしていた。
「そのごほうびが、ペテン教師というわけか」と、サイモン。
「ひどいわ!」と、メロニー。ロジャーの手を引いて、父親の前を通っ
て家に入った。
 ふたりは、階段を上った。メロニーが先に、ロジャーは後ろからジー
ンズを見ながら。
 サイモンは、ドアをバタンと閉めると、家じゅうがゆれた。
 ミリーの犬はペキニーズで、頭に黄のリボンをつけてコーチの下から
ドアに向かってキャンキャンほえながら走ってきた。見たところ、侵入
者はいなかった。犬用のドアを入ると、サイモンのひざに跳びついて攻
撃しようとした。
「ボッシーをひっくり返して、どうしようというの?」と、ミリー。階
段の上からどなった。
「べつに」と、サイモン。ボッシーの攻撃をかわしながら。ボッシーは
指にかみつこうとした。サイモンとボッシーは、いつも戦っているボク

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サーどうしのように、相手の攻撃を容易に見抜いてかわせた。
 サイモンはボッシーの首筋をつかもうとすると、ボッシーは後ずさり
してサイモンの左ヒザをかんだ。ボッシーの毛をつかむと、ボッシーは
キャンキャンないた。
 ミリーは階段をドタバタ降りてくると、ボッシーを抱き上げてサイモ
ンをにらんだ。
「あなたは動物がきらいなの?やめなさい!」と、ミリー。言葉に毒を
込めて。ボッシーは、ミリーの腕のなかからサイモンをあざ笑った。
 ミリーは寝室に戻り、ボッシーを犬用のベッドに寝かせた。サイモン
は、2階のバスルームでその日必要な用事を済ませた。
 それから寝室で、ボッシーにクークー言っているミリーとは言葉をか
わさずに、服を着た。サイモンは、赤と黒のチェックのフランネルのシ
ャツを着て、すこしきつめのブルーのズボンに、縦じまのナイロンの靴
下をはいた。靴下は、伸びきって穴があきそうだったが、靴で隠して、
腰にはベルトを巻いた。
 サイモンは「行ってくるよ」と言いそうになった。ミリーはボッシー
に夢中でサイモンには知らんぷりだった。
 サイモンが通り過ぎるとき、メロニーのドアは閉まっていた。
 地下室に降り、本の前を通るときにしばらくのお別れを言って、地下
室からガレージに直接出られるドアからガレージに出た。

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 2台の車があった。ミリーのは、3年前に買った、ガソリンを食うス
テーションワゴンで、サイモンのはキャブだった。
 キャブは、ニューヨーク市標準の明るい黄でオレンジの筋が入ってい
た。12万3千マイル走っていて、5年たっていた。すべての部品は、
1回以上交換していた。
 サイモンは、オーナードライバーだった。オーナードライバーは、ニ
ューヨーク市の11、787台のタクシーのうち5千台だった。タクシ
ーは、街中で乗客を拾うだけで、5万6千ドル稼げた。
 15年間、サイモンは、残りの6、787台の1台をやっていて、1
日10時間、雇われの身だった。3年前、独立する権利を得て、中古キ
ャブを買った。しばらくは支払いに追われていたが、やっと自分のボス
になれた。
 エンジンをかけるのに6回クランクをまわした。ウィンドウブレーカ
ーを引いて、運転席に座ると、クリップボードを調整して、ガレージの
ドアをあけると出て行った。
 ミリーは、エンジンをかける前にガレージのドアをあけるようきつく
言っていた。
「あなたはそのうち、1酸化炭素中毒で死ぬわよ!わたしに借金を残し
て!」それが、ミリーのお決まりの文句だった。
 ミリーは、サイモンがキャブに乗ってるところを近所の人たちに見ら

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れたくないのが、理解できなかった。多くは、ただの会社員で、それ以
外は、中古車販売とかテレビの修理人だった。彼らは、オーナードライ
バーとただのタクシー運転手との区別が分からなかった。
 サイモンは、ガレージのドアをあけっぱなしで街へ繰り出して行った。
それも、ミリーは気に入らなかった。ボッシーが逃げてしまうかもしれ
なかった。サイモンには、好都合だった。
 サイモンは、すばやく運転して、家や近所からすぐに遠ざかった。今
日はいい日だった。だれにも仕事に出るところを見られなかった。
 どんな日が、いい日だったか?空港までの客?かわいいミニスカート
の客?100ドルのチップ?酔っ払いがだれも吐かなかった?ほかのキ
ャブに客を奪われなかった?礼儀正しいほかのドライバー?
 キャブは、ムチを使わずに都心までの道を知っている信頼できる愛馬
のように、ロングアイランドハイウェイに入った。しかしすこし疲れた
老馬で、道路の穴によろめき、サイモンがアクセルを踏むごとに咳き込
んでいた。
 窓をあけると、風が顔にあたった。スピードは、「世界最大の駐車場」
として有名な道路だけあって、ほかでは味わえない喜びだった。サイモ
ンの数少ない喜びのひとつで、自分の時間として、あえてほかのキャブ
のようにラッシュアワーの混雑にさからったりはしなかった。キャブのド
ライバー以外は、だれも理解できないだろう。サイモンは、行きたいと

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ころどこへでも行けた。ブルックリンにさえ行けた。
「おっと!」と、サイモンは考えた。「本を持ってくるのを忘れた!」
ハードボイルド探偵といっしょなら、1日がすこしはましになった。た
まに、ウェストサイドハイウェイの片側に停めて本を読んでいた。ある
日サイモンは、走って仕事をしたのは2時間だけだった。ミリーは、サ
イモンの売上げがたったの23ドルだったのを見て、怒りくるった。
 ミリーが正しいことは、分かってはいた。サイモンには、カネはどう
でもよかった。35ドルの客がいても、虹の向こうに金のつぼはないこ
とが分かっていた。あるのは、胆石くらいのもんだ。サイモンは、仲間
と週末に草野球をするのをやめた。ミリーと週1回、ダンスをしにゆく
のもやめた。タフガイの物語だけが、唯一の情熱となった。
 選択は、ふたつにひとつだった。情熱に従うか、今あるもので満足す
るかだ。今まではひどかった。家、家族、結婚、幸せとは言いがたいも
のが続いていた。サイモンの若い頃のプランとは正反対だった。







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            2
 
 営業中の表示は消したまま、南の都心へ向かうミッドタウントンネル
に入った。14番ストリートのバルモラルカフェの前の、長い黄の列に
キャブを停めた。
 回転ドアを押して入ると、騒々しい人の声━━━おもに男の声がして、
トレイをガタガタさせたり、シルバーやそれ以外の服の流れにぶつかり
そうになった。葉巻やタバコの煙が、モクモク上がっていた。
 サイモンは、カウンターに通じる列の一番後ろに並んだ。コーヒーの
おかわりをついでいる女店員、それを見ている店長、一日中カフェで時
間つぶしをして寝込んでいる老人、わずかな会社員、それに浮浪者のよ
うな人々であふれかえっていた。
 騒々しさの中であいさつする大声は、タクシー運転手同士が互いを見
つけてのものだった。雨の日に、唯一ニューヨークでタクシーを見つけ
られる場所は、バルモラルカフェしかないというのは、有名な話だった。
 サイモンは、すり減ったプラスチックトレイを1枚取ると、そのまま
ステンレス製のカウンターの列を進んだ。
「ハイ、サイ!どうだい?」と、ベニー。自分のトレイをスムーズにす
べらしながら。
 ベニーは、5フィートしかないからだで、よく知られた病気━━━い

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くつかは未知の━━━病気と戦っていた。24年前からサイモンはベニ
ーを知っていた。ベニーは、昼間の仕事、つまり不平を言うチャンスを
のがすことはなかった。
 サイモンの返事を待たずに、ベニーは不平の数々を並べた。
「わしかい?元気さ。なんて、たいしたことないさ。ちょっと言えな
い苦しさがあったんで、医者に診てもらったら、わしの腎臓じんぞうを見て、わ
しが生きてるのが不思議だってぬかしおった。わしの心臓は━━━」
「失礼!」と、サイモン。ベニーの話をさえぎって、列の先へ進んだ。
ベニーが腸の話になる前に、去りたかった。
 サイモンの前の太った男は、サイモンが目をつけていたチーズケーキ
をトレイにのせた。最後の一片だった。サイモンは、カウンターの向こ
うにいる純白のエプロンの店員に、新しいチーズケーキがあるかどうか
かなかった。バルモラルカフェのサービスが悪いことは有名だったか
らだ。
 サイモンは、ブラックコーヒーとまずそうなアップルパイでがまんし
た。
「サイモン、足元に気をつけろよ!」と、ベニー。サイモンが代金を払
うときに聞こえた。
 サイモンは、混んだレストランでテーブルの間の狭いスペースを進む
うちに、コーヒーのほとんどをトレイにこぼした。

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 大きなポットの模型の横のテーブルには、ギリシャ人のニックに、ペ
ドロ、アレックス、エディフォングが座っていた。サイモンがイスにつ
くと、会話がしばらく中断して、サイモンにあいさつした。エディは、
もっともやせていて、プレートの食事を終えていたが、話に夢中だった。
「それで、オレは言ったんだ、女は5番街の水道橋にいるって。女はし
ゃべりながら歩いていた。最後に見たときは、ベルモントのジョッキー
といっしょだった。その後はどこへ行ったか━━━」
 ペドロは、大きなゲップをしたのでみんな笑った。エディは、たまに
鋭い勘で競馬を的中させるので、ノミ屋に足を折れれないよう注意して
いた。
 ノミ屋は、ダーティドムという太った男で、店の反対側にいた。お客
たちは、ドムのところに来て、たましいを賭けていった。ダーティドム
は、ロングアイランドの北の25エーカーの土地に住んでいた。タクシ
ー運転手たちは、アパートか抵当入りの小さな家に住んでいた。サイモ
ンは、損することもギャンブルが悪だということも知っていたので、誘
惑に負けることはなかった。
「サイ!来月から、いよいよオレたちの無線グループを始めるぜ!」と、
ペドロ。
「へぇ~」と、サイモン。コーヒーをすすりながら。
「10台から、割引つきで始める」と、ペドロ。「街で2番目に忙しく

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なるぜ。サイも配車係から無線を受け取れるよ。そのへんの酔っぱらい
からでなく、ウォールストリートからな」
「チップもねぇのか?」と、ギリシャ人のニック。
「街でひとりでいるときに」と、ペドロ。ニックを無視した。「無線で
助けを呼ぶこともできる。よたもんにナイフを首に突きつけられたらど
うする?」
「ああ、大丈夫だ」と、ニック。「ビビッて、すぐにカネを出すよ」
 アレックスは、グループの最年長で61だが、なにか言った。アレッ
クスがしゃべることはめったになかったので、テーブルのみんなは静か
になった。
「先週、またピストル強盗にあった」と、アレックス。ほとんど聞きと
れない声で。「白人だった。ひどいだろ?シフトの終わるときに。87
ドルやられた」アレックスは、また黙ってコーヒーをすすった。
 男たちは、泥棒の話になった。ニックとペドロの話は、まゆつばもの
だった。タクシーの運転席は、弾が貫通できないパーティッションで区
切られていたので、安全だと感じていた。
「独房にいるかんじだ」と、エディ。「それでいつも持ってる」
「なにを?」と、サイモン。
「38口径さ。波止場の男から手に入れた。75ドルもした。強盗され
そうになったら、パンチを食らわせてやる!」

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「ルイもそうだった」と、ニック。ルイは、6回ピストル強盗にあった。
それで拳銃を手に入れて、7回目にやっつけようとして、逆にやられた。
ルイの葬式は、3ヶ月前だった。
 みんなが昔の仲間を哀悼あいとうしていると、沈黙をサイモンが破った。
「オレたちは、誰からも一目もおかれてない!」と、サイモン。
「ロドニーダンガーフィールドは?」と、ニック。
「やつも含めてだ。ガキとケンカしてるようなもんだ」と、サイモン。
「トラック野郎や日雇い労働者がなんだっていうんだ?やつらがなにか
してくれたか?」
 ニックがシャレたジョークを飛ばそうとしたので、サイモンはさえぎ
った。「なにかしてくれたか?撃ちまくる映画や飛行機の歌やテレビド
ラマだってそうだ!」
「サイ、その話は前にも聞いたぜ!」と、エディ。「それで、なにが言
いたいんだ?お客にチップをねだるのか?」
「まったく違う!」と、サイモン。「昔は、オレたちは神秘的な存在だ
った!」
「香水のような音とか?」と、ニック。
 みんな笑ったが、サイモンは続けた。
「ブートレギングやノッキングアラウンド、ライクスチーブミッドナイ
トを見てみろ!私立探偵にはみんな自分専用のタクシーがあったんだ!」

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 ペドロは、また大きなゲップをしたのでみんな笑った。サイモンは、
がっかりした。
 話題は、スポーツから政治経済にわたった。サイモンは、また自分の
説を述べようとしたが、だれもサポートしてくれなかった。
 ペドロは、グループの最弱年で31ですでに2回離婚していたが、ガ
ールフレンドの話を始めたので、サイモンは朝食を終え、仕事に戻った。
 
               ◇
 
 最初の客は、ビジネスマンでずっとアタッシュケースを神経質にたた
いていた。つぎは、老婦人でペットのヨークシャーテリアを獣医に連れ
てゆくところだった。つぎは、ふたりのビジネスマンで遅いランチをと
りに派手なレストランに入った。
 ファッション通りで、モデルの女を乗せて、イーストサイドの自宅へ
届けた。話しかけてもろくに返事もせず、チップもなかった。
「ビッチめ!」と、サイモン。女が降りると、つぶやいた。
 イーストサイドを流していて、コカインの売人だと名乗るホモの乗客
をのせた。ウエストサイドを通って、食肉市場の横を通った。客は話し
たがったが、サイモンは黙っていた。ホモの客は、好きじゃなかった。
「支払いは、現金でなく別のものじゃだめ?」と、ホモの客。ゲイバー

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の前で降りるときに。
「現金だけです!」と、サイモン。チップのことはあきらめながら。
「あら」と、客。首のチェーンを指にひっかけながら。「別のってコカ
インよ、おバカさん!」
「料金は、9ドル50セント、キャッシュで!」
 客は、サイモンに10ドル札を投げて降りていった。
 そのあとは数人のパッとしない客。政治のことをやたら話したがる男。
ひとりごとをつぶやく女は、3ドルの料金に2ドルのチップをくれた。
 3時のブレイクタイムになった。
 ウェストサイドのハンバーガーショップで、2台のタクシー仲間と話
していた。だれかがまた無線グループの買収のアイデアを持ち出した。
サイモンは、「オレは、自由な方がいい!」と言ったが、論点がずれて
いることは分かっていた。それで、また、仕事に戻った。
 夕方のラッシュに向けて道が混み始めたとき、42番ストリートと2
番アベニューの角でサイモンは、客を乗せた。そこはいいスポットで、
合衆国の外交官やデイリーニュースのレポーターといったイーストサイ
ドの上客がよく乗ってくる場所だった。サイモンは客を乗せるために、
2車線をまたいだ。
「とまってくれて助かった!」と、客。バックシートにすべりこみなが
ら。客は、これといって特徴のない外観で、いいスパイになれそうだっ

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た。電話ボックスに消えてしまうこともできただろう。
 サイモンは、バックミラーで客が見えるようにシートをずらした。変
な客を相手してるヒマはなかった。
 客は、まともに見えた。中年で、ふつうの体型で、ヒゲはきれいにそ
って、ブラウンの髪は薄くなりかけていた。クリーンニング済みだが時
代遅れのダークカラーのスーツだった。サイモンは、視線をそらした瞬
間に、客の顔を忘れそうだった。
「どっか行きやすか?それとも、話すだけ?話すだけなら、よそ行って
くんな!」と、サイモン。ありったけのタフガイの声音で。変な客をあ
つかうには、だれがボスかを教えとく必要があった。パッとしない表現
であっても。
「14番ストリートのブロードウェイ。バルモラルの近く」と、客。
 客は急いでいただけらしく、サイモンはきつい言い方をしたことを後
悔した。バックシートにおとなしく座って、窓の外を見ていた。
「窓をすこしあけてもいいですよ!」と、サイモン。数ブロック走って
から。
 特徴のない男は、ためらった。「知り合いのように感じる。悪い意味
ではなく。なにかをさがしているやつは、どこをさがせばいいか知って
るわけではない」
 しばらく言いよどんだ。言葉をさがして、口が動いた。

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「だれが、だれなのか、どうでもいい。わだちになにがあるっていうん
だ?テレビをずっとつけてるようなもんだ。そのままにしておけば、声
がしゃべり続ける」
 男の言葉はあふれ、コニーアイランドのカーレースのようにぶつかり
あった。
「みんな緑の芝生にあこがれてる。カニの芝生。無機能。防臭。足の悪
臭。コメディ。嫉妬。プレッシャー。建設。崩壊。打つ手なし。チャネ
ルを変えろ!秒読み。友人の死。虚無。おまえとオレ」
 サイモンは、バックミラーでまた観察した。男をベルビューでおろし
てしまうこともできた。男が乗ってきたのは、混雑が始まる前だった。
変に見えるが、言葉があふれだしたとしても、まともな気がした。男は、
急に頭をふった。
「あなたは聞いてくれると思う。オレの名前は、チャーリーフリットク
ラフト。結婚しててガキがふたり、クイーンズに家も買った。株で大損
した。妻が浮気してるの見つけた」
 男はしゃべるのをやめて、窓の外を見た。
 ふたりとも黙ったまま、タクシーは騒音のなかを走った。
「すべてを放り出しそうになったことは?」と、男。突然、いた。
「もういちどやり直して、すべてを忘れようとしたことは?」
「イェ~!」と、サイモン。その言葉が、たましいのゲップのようにサ

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イモンの口から出た。
 それ以上は、話さなかった。14番ストリートに着いて、男は降りた。
料金と20%のチップを置いていった。
 サイモンは、不安を感じた。男の顔も、男が言ったこともよく覚えて
なかった。覚えていたのは、自分の心の叫びである「イェ~!」という
言葉だけだった。
 
               ◇
 
 夜、家に帰ってからも、「イェ~!」という言葉がサイモンをとらえ
ていた。サイモンは、なんのためらいもなく無意識からのように、その
言葉をはっした。夢の感覚を越える、なにか感覚が強すぎて、顔なし人間
しか完全に理解できないような感じがした。親しい友人にも、うまく説
明できないことが分かっていた。とにかく、話す相手はいなかった。ダ
ークカラーのスーツの客との会話以外のことを、考えようとしたが、そ
のときの自分の感覚を忘れられなかった。
 ショーンの車が、家の正面に停めてあった。ショーンは、エンジンに
寄りかかって、フードつきコートを着ていた。車は、1968年型黒の
ムスタングを完全に再現したカスタムカーで、エンジン音はショーンの
うなり声のように響いていた。

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 サイモンは、ガレージにキャブを停めると、息子のところへ行った。
サイモンの動きはにぶく、それは、体重とキャブの座席のスプリングの
せいだった。
「調子いいかい?」と、サイモン。
「最高です、ダディ」と、ショーン。「キャブレターがすこし汚れてた
んで、磨いておきました。ついでに、燃料フィルターに詰まりがあった
んで交換しておきました」
「安全がベストさ」と、サイモン。
「そうです、そのとおりです!」と、ショーン。
 サイモンは、息子を宝石のようによそよそしくあつかう自分のやり方
が嫌いだった。言行不一致のような気がした。できれば、男どうし心と
心でつきあいたかった。
「大学の方は?」
「きょう、メンバーリストを作りました!」
「チームの?」
「ブライアンが、ひざの故障でしばらく休むので、今シーズンは、ぼく
がクォーターバックをやることになりそうです。だれかが故障するのを
喜んでるわけではありませんが」
「もちろんさ。ガールフレンドの方は?」と、サイモン。ショーンにぞ
っとするウィンクを送りながら。

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「ええ、メリーアンとは、本気で考えてます。彼女は看護学校を終えた
いと言っているので、結婚は、ぼくが卒業するまで待つつもりです」
 サイモンに、悪い考えがしのびよった。なぜ、ショーンは、自信をな
くすことがないのだろう?あるいは、ドラッグをやるとか?性病にかか
るとか?そうなれば、サイモンは父親らしくふるまって、アドバイスの
1つでも与えてあげられたのに!
「こんどアルバイトをします!」と、ショーン。「大学の近くの電気店
で!」
「いいじゃないか!そんな時間があるとは思えないけど」
 ショーンは、うなづいた。「たまに大変ですが、なんとかなりそうで
す」
「そう、願ってるよ!」と、サイモン。「夕食は?」
「食べました」
「それじゃ、また、あとで!」
「話せてよかったです、ダディ」
「オレもだよ!」と、サイモン。
 家の中は、葉巻のにおいがした。だれがこの家で、葉巻を吸ったのだ
ろう?ショーンは、体にタバコのにおいが付くのを嫌っていた。メロニ
ーも、体にどんなにおいでも付くのを嫌っていた。ミリーは、サイモン
に聞かれて、どうかしてんじゃないのと言っていた。

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 1年くらい前から、サイモンは、ミリーが浮気している気がしていた。
面と向かって聞いたことはなかった。しかし、いつも葉巻のにおいがし
たし、こんなメモがあった。
「友人と出かけてきます。夕食は、冷蔵庫に。帰りを待たないで、先に
寝ていてください!」
 葉巻を吸ったのは、だれなのだろう?このにおいは、サイモンの父親
を思い出させた。背が低く太った体型で葉巻を吸い、かつらをつけてい
た。フロリダから週2回飛行機で、息子のワイフと浮気しに来てるのだ
ろうか?
 冷蔵庫には、ミートローフがあった。メロニーは、出かけていた。ど
こにいるかは、考えたくなかった。外で、ムスタングが出てゆく音がし
たので、ショーンが出かけたことが分かった。
 サイモンは、静かな家を移動して、つけっぱなしだった室の電気を消
した。居間のプラスチックカバーのイスに座って、地下の石油ヒーター
のハム音を聞いていた。それは、心臓の鼓動のようで、たまに、止まっ
た。修理屋を呼ぶべきだったが、ぎりぎりまで待っていた。
 目をつぶっていると、隣のテレビの音が聞こえた。隣の家族は、マー
ブグリフィンを見ていた。いつも、マーブグリフィンだった。
 自分がなにをしたいか、分かっていた。急いで階段を降りて、地下へ
行った。電気をつけて本棚を見たとき、まるで自分の下で床がぬけ落ち

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た気がした。
 本棚は、カラだった。すべてカラッぽで、木がむき出しになっていた。
3段目に、メモがあった。
 
 親愛なるサイへ━━━きょう銀行から別の小切手が届きました。それ
 だけですが、いいことを思いつきました。本をコレクターに売るとい
 うアイデアです。驚くことに、ガレージのガラクタが、マンガも含め
 て、全部で、2300ドルになったんです!これで、スペースができ
 た上、お金もです。これで、あなたの悩みのたねも解決です!
                    ━━━ミリーより
 
 メモは、ミリーの手書きで、句読くとう点はハートマークになっていた。サ
イモンは、完全に理解するまで3回読み直した。
 数秒間は、打ちのめされて立ち上がれなかった。ミリーは、ずっと前
から本をすべて処分するとおどしていた。ついに、それをやったのだ。
収集に30年もかけ、1000の幸せな思い出や愛してやまない登場人
物たちが、一瞬で抹殺された。
 デッドハート、マイガンイズクイック、デッドイエローウーマン、テ
イクイットアンドライクイット、ザハイウィンドウ。すべてが失われた。
タフガイの友人たちが、たったひとりの女によって、一瞬で抹殺された。

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 サイモンは、バスルームに駆け込んで吐いた。
 立ち上がったとき、トイレタンクの布カバーの上に、ダイアモンドイ
ンザローが置かれていた。サイモンは、ミートローフの残りもすべて吐
いた。ミリーは、彼女の虐殺から、この本だけ見逃したのだ。サイモン
は、本をきつく胸に抱きしめた。唯一の生き残りだった。ミリーでさえ、
レッドダイアモンドは倒せなかった。
 サイモンは、トイレを出て、薄汚れたイスに行って座った。ブックカ
バーを見つめると、ブロンドの女がこっちを見返した。
 本を抱えて、ひらく準備をした。本に刻印されたブックマーク。サイ
モンは、どこかの野蛮人のように、ページのはしを折るようなことはしな
かった。
 本のうしろにあるマーカーをはさみ、やさしく本をひらいた。そして、
お気に入りのページから読み始めた。
 
               ◇
 
 拳銃の台尻は、床で倒れているブロンドと同じくらい熱かった。スカ
ートはめくれ、太ももが露出していた。生きてる女というよりは、死ん
だ女だった。人は死んでしまえば、美しい足もただの肉の断片だ。
 彼女は、赤のブラウスを着ていた。背中の部分に、1フット角の暗い

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赤の模様ができていた。それがなにを意味するかは、シャーロックホー
ムズでなくても分かった。
 彼女の手はきれいで、ツメはみがかれ、着ているブラウスに合ってい
た。優等生だった。指は,すでに硬く、硬直が始まっていた。
 ウィスキーの助けが必要だった。しかし味わえたのは、むなしい死の
味だった。彼女をひっくり返した。
 フィフィではなかった。オレがずっと戦っていたおそれは、カウント
ダウンされた。
 妹のルルラロッシュだった。もちろん犯人は、ルルがフィフィをねら
った弾丸で殺されたことを知らなかった。
 オレは、落ちてたものを拾った。ブロンドではない。それは、38口
径だった。オレは、ルルもたぶんそうだったと思った。しかし、こっち
の方は硬かった。スミス&ウェッソンだった。銃口をかいだ。ついさっ
き、撃っていた。シリンダーをあけると、2発なくなっていた。1発は、
ブロンドの背中だ。もう1発は?
 自殺ではなかった。農場を買おうというときに、だれが背中越しに自
分を撃てるだろうか?だれかが撃って、自殺に見せかけたのだ。オレは、
調べるべき時がきた気がした。
 オレは、私立探偵だ。真相を調べる権利があった。しかし犯人は、オ
レが大事な証拠を荒らすのを喜ぶかもしれない。

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 汚い仕事だった。しかし、だれかがやらなきゃならない。14年もオ
レはこんなことをやってきた。保安官以外のものができることは、そん
なに多くはなかった。
 オレは、拳銃を拾って、トレンチコートのポケットにすべりこませた。
この町のふたりの保安官は、そんなものは湾に放り込んでしまうだろう。
オレは、その拳銃がすぐ必要になる気がした。
 
               ◇
 
 サイモンは、本をひざの上において、このシーンを味わった。火薬の
においがしたし、血のにおいもブロンドの香水の香りもかぐことができ
た。ダイアモンドのアゴが見えたし、報復を誓ったときの歯ぎしりも聞
こえた。
 サイモンは、前に読んだときに、ルルは妹で、フィフィを訪ねてきて
悪い時に悪い場所にいあわせたことを知っていた。ロコリコの秘密を知
っていたのはフィフィで、ルルに彼女の命という代償を払わせてしまっ
た。
 サイモンは、前になんども読んだので、犯人がだれかも知っていた。
しかしそのことが、読む楽しさを減らすことにはならなかった。その本
は、なんども訪れたなじみの場所だった。闇の帝王ロコリコに、なにを

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期待すればいいか知っていた。フィフィラロッシュが、すべてのシーン
やタフな会話において、黄金のハートを持つことを知っていた。ダイア
モンドが、ロコの手下の裏をかいて、フィフィを助けることも知ってい
た。サイモンは、また、本をひらいた。
 
               ◇
 
 外は雨が降りはじめた。オレはコートのえりを立てた。霧雨の冷たい
指が首筋をはった。雨は街から悪を洗い流して、帰るべき排水溝へと流
した。
 壊れたカサが歩道にころがって、死にかけたこうもりのように羽をバ
タつかせていた。街灯がアスファルトの水溜りにちらちら光っていた。
オレは雨が好きだった。考える助けになった。
 リコは、今夜は、宝石や毛皮やお世辞のうまい男が好きな別の女と出
かけているはすだった。死んだ女のことなんて気にもとめてなかった。
警察のこともだ。リコは警察を裏であやつれたからだ。
 ラロッシュ一家には、ずっと前、スターを夢見ながら、スターには決
してなれなかった娘たちがいた。
 フィフィは、逃亡中で、リコが自分の間違いに気づくのを待っていた
が、捜索犬が放たれていた。

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 オレは心配しながら、背中には死人の冷たい手を胃にはかたいものを
感じながら、霧雨の中を歩いていた。
 フィフィは、妹が23才の成熟した年頃に殺されたことを知って、な
にができただろう?なんであれ、レッドダイアモンドが真相を解明しな
ければならないということだった。ロコリコや彼の2人の手下やかばん
持ちの警官や政治家たちが、オレを止めることはできなかった。
 オレには、血のにおいがしたし、スキャンダルのにおいもした。アス
ファルトに降る雨が、それらを流し去ることはできなかった。
 ロコとオレは、いつか対決する日がくるだろう。生き残るのは、どち
らかひとりだ。オレは、それがオレであることを願った。しかしオレは
いつも、大きくもうかる確率の少ない方に賭けてしまう。
 キャメルに火をつけて、深く吸いこんだ。にがい煙が肺を満たし、ク
ールで青白い雲をはき出した。
 
               ◇
 
 サイモンは、中学時代に一度タバコを吸ってひどい目にあって以来、
決してタバコを吸わなかった。しかし、ダイアモンドが火をつけると、
サイモンも吸いたくなった。
 サイモンは、奇妙な頭痛を感じた。だれかと話したかった。サイモン

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のぎくしゃくした考えを分かってくれるだれか。新鮮な空気が必要で外
へ出なければならなかった。
 本を下に置いて、めまいがして立ち上がった。よろめきながら階段を
上がり、玄関にでた。しかし頭を外に出してもよくならなかった。マー
ブグリフィンが聞こえた。外出する必要があった。冷たい雨を気にせず
ガレージへ歩いていった。
 キャブは、エンジンがまだ温まっていて、すぐにスタートした。走り
だすとタイヤが悲鳴をあげた。
 初めて自分の車を持ったティーンエイジャーのように運転した。雨で
すべりやすいハイウェイを、時速85マイルで走った。ワイパーをまわ
しても雨粒が視界をさえぎった。
 ほかの車は、サイモンの赤のブレーキランプが追い抜くごとにクラク
ションを鳴らした。サイモンは、下に地面のない水上飛行機のように運
転した。対向車の白のライトが、サイモンの目に反射した。
 ラジオをつけてダイヤルをまわすと、グレンミラーオーケストラの演
奏が聞こえてきた。ラプソディインブルーのトランペットに合わせて、
サイモンは頭をふった。
 都会に入った。歩行者は、空車のタクシーが雨の中を走っているのを
見て、必死に手を振った。手を振るのは親愛からではなく、タクシーに
無視されて指を立てた。

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 都会は彼のものだった。すべての道路の穴、すべての一方通行、すべ
ての鈍感な信号機の位置を知っていた。交通警察隊のいる場所や牽引車
が待機している場所も知っていた。クロスタウンやダウンタウン、アッ
プタウン、ミッドタウンをただ楽しむために流した。
 サイモンは、いつもの景色を、形や色が変化する万華まんげ鏡を通して見た。
濡れた道路の矩形の反射。街灯の黄や赤や緑のクロム合金。
 サイモンのなじみのあいている唯一の店は、バルモラルだった。店の
前には、キャブが停まり、明るい室内で運転手たちが食事をしていた。
 夜の時間のキャブは、昼とは違っていた。彼らは、防弾パーティッシ
ョンの後ろにいて、銃やナイフやブラックジャックが運ばれていた。
 サイモンのキャブは、ブロードウェイを北にむかい、ブスブス音をた
て始めた。34番ストリートでは、かぜをひいたようにせきをした。サ
イモンは、車が停まるまで燃料ゲージがエンプティをさしているのに気
づかず、8番アベニューのポートオーソリティでエンジンは止まった。
ニューヨークシティのどまん中だった。サイモンは、なんとか銀行の車
寄せに車を運んだ。かぎを掛けずに車を離れると、歩き始めた。そして、
歩き続けた。
 いろいろなネオンサインが点滅していた。
 サイモンは、派手な映画看板の下を通った。
 小男の客引きが、店の前でサイモンに入るよう声をかけた。

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「いい女がいますぜ、だんな!ニューヨーク1!心は天国!」
 街の女が、湿った通りでサイモンの手を引っぱってついてきた。
「寄ってかない?デート?それとも、パーティ?」
 ホットパンツとミニスカートの女たちが、サイモンについてきた。
 女の顔は、みんなくもっていた。サイモンは、酔ったように歩いた。
空気が薄く、肺に取り込めなかった。酸素は、どこへ行っちまったんだ?
 女たちは、ペドロが夜のシフトで経験した冒険談を思い出させた。
 サイモンは、街の女たちとつきあったことはなかった。街の女が、タ
クシー代を体で払うと言ってきても、ただで乗せてあげていた。年取り
すぎとか、太りすぎ、美人でないなどの理由で、避けてきた。どんな理
由で、サイモンと付き合いたい女なんているだろうか?サイモンは、ミ
リー以外の女性と付き合ったことはなかった。
 ミリーは、結婚したとき、サイモンが初めてではなかった。ミリーは、
10代の頃は人気があってもてたと自分では言っていた。
 雨が強くなった。サイモンは、標識にもたれていた。ロングアイラン
ドに帰るべきだった。ミリーはもう帰っているだろうし、秘密の笑いを
浮かべているだろう。子どもたちも家にいるだろう。みんな不思議に思
っているだろうか?いったい、サイモンのことを考えているのだろうか?
 1ミリセカンドの間、頭がブラックアウトした。標識のポールを持つ
手が、混乱の渦へ落ちてゆくことを防いでいた。

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83





 また、歩き始めた。
 49番ストリートで、彼女を見た。ふたりの目が合った。目の前のブ
ロンドに、ためらいはなかった。
「フィフィ?」と、サイモン。
「それが、捜してる女?」と、彼女。「出て行ったの?」
 彼女の声は、レッドダイアモンドが言っていたように、ビロードのサ
ンドペーパーのようだった。
 
               ◇
 
 彼女は、25くらいで、成熟前のかたさがあった。赤のドレスが胸を
おおい、形はいいが驚くほど筋肉質の足を隠していた。ブロンドの髪は
雨でくしゃくしゃになって、イルミネーションに輝いていた。
 しかし、フィフィは死んだ、いや、隠れている、いや、それは現実で
はない、いや━━━。
「夜どおしはいられないのよ、ハニー!」と、ブロンド。指をサイモン
の頬に走らせて。「フィフィとよろしくしたいんでしょ?」
「ロコと手下は?」
 彼女は、1秒間ためらった。「あなたの旅がなんであれ、ハニー!高
くつくわよ!フィフィといっしょなら、それだけの価値はあるわ!」

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「きみは死んでるんだろ?」と、サイモン。
「生きてるとこを見せましょうか?」と、彼女。腕を離して、通りを渡
った。「早く!夜どおしはいられないのよ!」
「フィフィがなぜ、ふつうの街の女のようにふるまっているのだろう?」
と、サイモンは考えた。「そうか、あれは演技だ!」サイモンは、ウィ
ンクを送った。サイモンは、演技につきあうことにした。通りには、危
険があった。ロコの手下が、巡回してるはずだった。
「わたしは最高よ!すこし高いわ。ストレートなら25ドル、ハーフア
ンドハーフなら50ドルよ。どちらにする?それとも、アラウンドワー
ルド?」
「う~ん」と、サイモン。彼女の言うことをまともに聞いてなかった。
どうやって、彼女を家に帰すか考えていた。ミリーは、レッドダイアモ
ンドが迎えに来るまで、彼女をかくまうことを分かってくれるだろう。
 ブロンドは、いつもの売り文句を繰り返した。
「アラウンドワールドがいいね」と、サイモン。「カナダには行ったこ
とがある」
「そうなの」と、彼女。笑った。「考えたこともない夜になるわよ!」
「そりゃいい!」
「世界中をめぐるのよ!フィフィといっしょに!そのまま歩いて!」
「どういう意味だい?」

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「チャンスは1回きりよ!そのまま歩いて!」と、彼女。8番から51
番ストリートに曲がるところでサイモンの手を引っぱった。
 彼女は正しかった。彼女を守るために、歩きつづけなければならなか
った。サイモンは、ロコの動きが気になった。
「ミリーに電話して、今夜はお客があることを言わなければ」と、サイ
モンは考えた。
 LIDOホテルのOがピンクのネオンサインが輝いていた。LIDの
部分は点滅していた。階段はきしんで危険だったが、ふたりはまったく
気づかなかった。彼女は、その夜が5回目の仕事だったからだ。サイモ
ンは、彼女を安全に郊外に連れ出す方法を考えていた。
 ホテルの案内係は、青白い顔をした青年で、ポピュラーサイエンスを
読んでいたが、フィフィが合図すると、カギのかかった2重とびらの向
こうでブザーを鳴らした。
「8番ドアがあいてます」と、案内係。視線をそらしながら。「どのく
らいご滞在で?」
「15分くらい」と、ブロンド。そして、サイモンに。「10ドル払っ
て!」
 サイモンは、なにも考えずにさいふを出すと、10ドルを案内係に払
った。彼女がさいふをのぞくと、さいふには札束と緑紙幣があった。彼
女は、サイモンの腕をしっかりにぎった。

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89





「あなた、いいショーを見れるわよ!」と、彼女。サイモンを狭い廊下
へ導きながら。案内係は、すぐに受け取った現金をカギのかかったレジ
へしまった。ふたりが8番ドアに入る頃には、雑誌の車記事に戻った。
 緑の室の天井からバルブがむき出しになっていた。ベッドはイルミネ
ーションで、木のイスにしけたナイトスタンド、狭い洗面台があるだけ
の室だった。フィフィは、背後のドアをしめた。
 ベッドは、乗りなれたロバの背のようだった。かつては白のシーツも
灰色に変色し、黄のしみがあった。軍支給のタオルが、ベッドのすみに
しわくちゃに掛かっていた。
 室は、酒のにおいに、かびのにおい、それにやぎのにおいがした。塩
のような鼻をつく悪臭が、サイモンをファンタジーから目覚めさせた。
「聞いてくれ!」と、サイモン。「時間をムダにして悪かったが、オレ
は行かなきゃならないんだ。することがあって」
 彼女は、サイモンを押してベッドに座らせた。彼女の香水のにおいは、
ほかのにおいにまさった。サイモンの両手を彼女の胸にあてて、サイモ
ンがぎこちなくさわると、声を上げた。
 彼女は、サイモンの股間に手をのばした。サイモンは、まためまいが
した。
 サイモンは、自制心が薄れた。こんなことは一度きりだし、だれにも
知れないだろう。

92

91





「電気を消したほうがいいかな?」と、サイモン。
「お好きにどうぞ」と、彼女。「ズボンをぬいでくれる?」
 サイモンは、木のイスに座り、くつをぬいできちんとベッドの脇にそ
ろえた。
「早く!夜どおしはいられないのよ!」と、彼女。サイモンのズボンを
イスの背にかけた。
「いい男ね!」と、彼女。スイッチの音がして、室が暗くなった。
「そろそろ行くわよ!世界中をめぐるのよ!」と、彼女。不自然な大声
で。
 サイモンは、それに気づかなかった。
「ふ~」
 ドアをたたく音がして、男の低い声が叫んだ。
「ポリスだ!みんな逃げろ!ポリスだ!」
「なんてこと!」と、ブロンド。「早く隠れて!クローセットに!」
 彼女は、サイモンを押した。サイモンは、おそれつつよろめき、クロ
ーセットと思われるところへ行って、壁に頭をぶつけた。
 サイモンは、めまいがして、なにが起こったのか分からなかった。ブ
ロンドは、ゴツンと音がしたところへ来て、サイモンをさらに押した。
 サイモンは、手さぐりで壁をつたって、クローセットを見つけて入り、
ドアを背後でしめた。

94

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 廊下のドアがしまる音がした。
 サイモンは、クローセットの床にうずくまり胸がドキドキした。
「フィフィが警官をうまくあしらってくれたらいいのだが」と、サイモ
ンは考えた。「もし捕まったら、ミリーや子どもたちになんて言おう?」
 サイモンは、暗闇の中で待っていた。なん時間にも思えた。聞こえる
のは、自分の心臓の音と息づかいだけだった。
 
               ◇
 
 サイモンは、ドアをあけた。室は暗かったが、すべてがはっきり見え
た。あるべきなにかが、無かった。
 電気をつけて、明かりに目を細めた。
 靴は、ぬいだ場所にあった。ボクサーショーツは、緑と白のリノリウ
ムの床にあった。イスの背にかけたズボンが無かった。
 室のドアをあけた。廊下には、だれもいなかった。室に戻って窓をあ
け、シェードも引いてあけた。外の通りに、パトカーは来てなかった。
 ブロンドは、いなかった。さいふも無かった。さいふには、93ドル
にチャージカード、運転免許証、それにいろいろなIDが入っていた。
 サイモンは、狂ったように室をさがした。ベッドのシーツを裂き、マ
ットレスを持ち上げて、枕を床に投げつけた。どこにもなかった。ズボ

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ンとさいふが、なくなっていた。
 サイモンは、狭い洗面台に行って吐いた。ほんのすこし前にも、そん
なふうに吐いた記憶があった。
 サイモンは、疲れるまで室の中をグルグル走りまわって、汚れたマッ
トレスにあおむけに倒れた。天井のひび割れをしばらく眺めてから、ベ
ッドからころがり出て、クローセットへよろよろ戻り、ドアを引いて閉
め、床にころがった。リノリウムは冷たく、気持ちよかった。
 サイモンは、床を押せば跳ねかえるように、世界がスピンしている気
がした。目の奥で、チカチカする映画が上映されていた。
 レッドダイアモンド。サイモンの父。フィフィラロッシュ。ミリー。
ロコリコ。メロニー。ベニー。街の女のブロンド。ペドロ。ヨガ行者。
ショーン。ニック。
 映像はスピードアップし、スローダウンし、暗くなった。小便がした
くなってトイレに行って、またクローセットへ戻った。叫んでは、眠り、
また起きて、頭のなかで上映される映画を見た。
 サイモンは、ブロンクスで過ごしたパッとしない子ども時代をしばら
く見た。頭がいいわけでもなく、強いわけでもなく、金持ちでもなく、
もてるわけでもなかった。群集にまぎれたただの顔。いつもだれかの方
がまさっていた。
 サイモンは、中学時代に、決闘に使用する拳銃は38口径がいいか4

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5口径がいいかということで友人と議論した。運転するゴーカートを、
ヘアピンカーブで時速80マイルに加速した。同じ中学時代に、ナオミ
という9年生の女子が黒のシルクのガターをはいていたのを思い出した。
サイモンに恥をかかせた教師たちが、銃撃を浴びて死んだ。波止場のバ
ーでエッグクリームを飲んで過ごした。サイモンは、また眠った。
 3番目の映画には、ミリー、メロニー、ショーンが出てきたが、脇役
だった。ヨガ行者とタクシーの仲間たちは、名場面に登場した。つぎの
夢で、サイモンは、フィフィという女といちゃついていた。
 
               ◇
 
 声で目覚めると、クローセットのドアの下から光が漏れていた。
「みんなうまくやってるわよ、あなた」と、女の声。若い黒人で、街の
女の声だった。
「そうらしいな、ベイビー。おまえもうまくやれてるようだ」と、男。
中年で白人、タフな男の声だった。「へっ!なんて室だ!爆弾が落ちた
のか?」
「気にしないで」と、女。「シーツがないけど、問題ないわ」窓のシェ
ードを降ろす音がした。
「街の女にしては、ずいぶんシャイなんだな!」と、男。

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「暗いほうがいいと思ったのよ!」と、女。イライラしながら。「こん
なとこじゃだめ!こっちに来て!」
 移動する音がした。
「ああ、強くつかみすぎ!落ち着いて!」と、女。ジッパーがあく音。
「うう、ちょっと待って!」
「準備オーケーって言ったろ!」
「あなたのズボンをイスの背にかけさせて!」と、女。「着るものをご
っちゃにしたくないでしょ?」
「どうでもいいよ」と、男。
「信用してないの?」
「8番アベニューで会う、25ドルの街の女をみんな信用してるさ!と
くにオレの小物にいちいち気を使う女はな!いいかい?」
「その前に体を洗って!」と、女。
 足音がした。
 室のドアをたたく音がした。
「ポリスだ!みんな逃げろ!ポリスだ!」
 この声は、聞き覚えがあった。しかしサイモンは、どこで聞いたか思
い出せなかった。
「早く!逃げて!」と、女が叫んだ。「ここを出るのよ!」
「からかってるのか、ビッチめ!」と、男がどなった。「やることを最

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後までやれ!」
「なに言ってるの!逃げて!逃げて!」と、女。
「ギャーッ!」と、男。「んだな!」
 殴る音がした。
「ジョーンズ!ジョーンズ!助けて!」と、女。
 ドアがバタンとあいた。「手を上げろ、おっさん!」と、男の低い声。
 つかみ合いの音がした。ふたりの男に女が、ののしり合ったりする声。
 銃声が5発。さらに取っ組み合ったり、もがき苦しむ声。ののしり、
あえぎ、長いすすり泣く声。ため息。そして、静かになった。
 サイモンは、そのあいだずっと、クローセットの床で丸まってじっと
していた。それから静かに、ドアをあけた。
 床の上に、3人倒れていた。全く違う色合いの6本の腕と足が、伸ば
したり絡みつきながら折り重なっていた。
 3つの頭があった。黒人の女は口をおおきくあけて死んでいた。黒人
の男は、血だらけのアゴヒゲが短く刈り込まれていた。白人は、目をま
るくして笑いを浮かべたまま死んでいた。
 ぽん引きの白のハットが、血で汚れて室のすみにころがっていた。女
のブラウスが、つかみ合いで裂けて、室じゅうに散らばっていた。ズボ
ンは床にあった。すそは、血で汚れていた。
 ぽん引きの拳銃はクロム製の25口径オートマチックで、窓からの光

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の筋に照らされて、床にころがっていた。それは、すばらしい道具のよ
うに輝いていた。
 そのシーンのへりは、すりガラスを通したチーズケーキの写真のよう
にぼやけていた。ぼやけていても、へりは鋭く切り取られ、非現実的だ
った。血のかたまりは、気にならなかった。前によく見たシーンだ。サ
イモンの呼吸もふつうだった。タバコが吸いたくなった。
 すそが血で汚れたズボンをひろい上げ、足をすべりこませた。すこし
短かったが、悪くはなかった。ポリエステルの生地はチクチクした。ベ
ッドの下から自分の靴を出してはいた。
 ぽん引きの拳銃を、ポケットにすべりこませた。
「この町のふたりの保安官は、そんなものは湾に放り込んでしまうだろ
う」と、サイモンは考えた。その拳銃がすぐ必要になる気がした。
 誰もいない廊下のドアを、バタンとあけた。銃声を、誰も聞いていな
かった。もしも聞いていたとしても、LIDOホテルの客は、警察を呼
ぼうとは誰も思わないだろう。ねずみ取りのわなは通りじゅうにあって、
そのひとつのわなというだけだった。ねずみシートはみんなが持ってい
て、他人の事には関心がなかった。
 サイモンは、室に最後の一瞥いちべつをくれた。サイモンが見たほんやりした
映像は、ポストカードのようなものだった。「母親に送りたいようなポ
ストカードじゃないな」と、サイモンは考えた。「母親がティフアナの

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安宿に家出したのでなければ」
 ドアを背中でしめると、狭い廊下を歩いた。肩におもりを乗せたよう
いば張った歩き方だった。
 長いあいだ、サイモンは自分を抑制してきた。今は、ジムへ行って昔
のごたごたを洗い流したかった。そう決断したのは、早すぎだったかも
しれない。しかし、バーボンの一杯は、早すぎではなかった。
 ホテルのフロントを通りすぎた。案内係はいなかった。重い金属のド
アをあけて、外の階段を降りた。
 レッドダイアモンドは、通りに現れた。

            3
 
 レッドは、目を細めまばたきした。太陽が目に入ったかのように、目
をこすった。タイムズスキュアの夜のネオンサインがギラついていた。
街の女たちは、最後のひと稼ぎのカモをさがしていた。ぽん引きは、コ
ークを飲みながら待っていた。どろぼうは、自分たちの場所に戻ってき
た。残りのくずたちは、わなを仕掛けたホテルや通りをブラついていた。
 街の女たちのいる場所は、古い安宿のようだった。夜の暗がりで、わ
なが仕掛けられた。昼のあいだは、盲目の男にも、わなが見破れなかっ
た。

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 レッドは、古い友人にするように腰の拳銃に手をそえた。腰の周りに
は、脂肪がたまっていた。
 めまいがして、レッドは立っていられなくなった。車に寄りかかって、
嵐のなかの若木のように体を震わせた。
 女が道に立って、見下したようにレッドを見ていた。レッドダイアモ
ンドは、タイムズスキュアの街の女のように無視した。レッドは、気を
しっかりさせようとした。
「なにがあったのか?」と、レッドは考えた。その夜の記憶をはっきり
させようとした。
「図書館で、フィフィといっしょだった。数千冊の本。なにかをさがし
ていた。そのとき、ロコの女のひとり━━━ミリーかだれか━━━がオ
レをキャブに乗せた」
 レッドは、記憶を整理するように、頭を手でおさえた。
 キャブは、ヒューゴキャンドレスのネバダガスに出てきたようなやつ
で、ガソリンを入れて、死の旅に出た。3人いた。いや、もっとなにか
あったはずだ。ゴングはすでに鳴って、試合は始まっていた。
 両手をポケットに入れると、右手が拳銃の台尻に触れた。レッドは拳
銃を取り出して、不思議そうに眺めた。
 3メートル先から歩いてきた背広の男は、拳銃を手にしたレッドを見
て足早に歩いていった。

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 レッドは、拳銃をポケットに戻した。それは、25口径だった。女の
銃だ。フィフィに手渡されたに違いない。なんという女だ。
 レッドは、店に入って、キャメルを1箱買った。
 支払いを済ませてから、ズボンのポケットにあった財布をよく見た。
それは、見知らぬ黒い牛革だった。レッドがいつも持ち歩くのは、茶の
2つ折りだった。ケースには運転免許証と銃携帯許可証があった。
 運転免許証の名前は、ジョンテールだった。別の名刺が数枚にテール
の名前のチャージカードに200ドルがあった。レッドは、運転免許証
の顔に見覚えがなかった。
「なにがどうなっているんだ?」と、レッドは考えた。「どこまで自分
を信じていいのか?」
 レッドは、何度も打ちのめされ、ノックアウトされたミッキーフィン
チだった。最悪の状態で、頭は、ロッキーマルシアノに1週間殴られ続
けたパンチングバッグのようにズキズキした。
 見知らぬ誰かに感謝しながら、タバコの箱をあけて1本くわえた。ど
うくわえてもしっくりこなかった。ロコにまつわることは、すべていい
ことはなかった。
 それに、女の銃。優美なことなんてどこにもない。あるのはガッツだ
けだった。必要なものは、バーボンが満たされた1杯のグラスだった。
 マッチをすってタバコの先端に火を近づけて、息をはいた。なにも起

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こらなかった。それで、息を吸ってみた。
 熱い煙がのどを通って、肺を焼いた。むせて、せきこんだ。レッドは
目に涙を浮かべてタバコを捨て、靴の裏で踏みつけた。
「肺が、昨夜のネバダガスのように焼けちまった」と、レッドは考えた。
「しばらく待たせておこう!今必要なのは、のどをうるおすことだ!」
 シルバーシャムロックのネオンサインが気になった。ルとムロの部分
のネオンが消えていたが、たぶん、シルバーシャムロックだった。名前
でレッドが得意なことがあるとしたら、住んでる街のバーの名前だった。
 ドアを引いて入ると、離陸しようとするジェット機ほどでないジュー
クボックスの爆音が、レッドの鼓膜にぶつかってきた。女が歌っていた。
それを、歌と呼ぶとすればだが。ドラムの音にあわせようとして、女は
息切れしていた。ハリージェームズではなかった。
 バーは、ジミーウォルターがニューヨークマラソンを走った記念に作
られたかのようだった。今、室内は暗く、床のゴミが見えなかった。暗
くなければ、バーのオーク材に刻まれた名前も読めただろう。客がつけ
た名前ではなかった。
 バーのすみでは、2人の中年の男性がビールを飲みながら、下を向い
てブツブツ言っていた。こんなふうなささやきを、レッドは前にも見た
気がした。犯罪者がするように、遠くからでは話しているようには見え
ないように、ブツブツ言っていた。どこのバーでもよく見るように、彼

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らは、銀行強盗や電気店からテレビを盗むやり方をささやいて時間をつ
ぶしていた。
 客の残りは、20代の若い黒人たちだった。通りで彼らを見かけたら、
なにをしているのかすぐ分かった。ピンクのスーツにダイアモンド付き
のカフス。つば広ハットに、コートのえりは毛皮、靴はピカピカでチッ
プをはずむやからは、ぽん引きだった。とるに足らないざこたち。吹き
出物。
 テーブル席に、2人の女がいた。雰囲気は40才くらいで、ホットパ
ンツをはいていた。女はコークを飲んでいた。
「年齢からすると、酒を飲める年頃だが」と、レッドは考えた。「ぽん
引きは、自分の商品を大事に扱いたいらしい」
 レッドがカウンターのイスにつくと、バーテンダーが来た。中年で、
ダニーボーイのようなアイルランド系の顔立ちで、鼻には殴られたのか
テープを貼っていた。
「バーテンダーには」と、レッドは考えた。「客を選ぶ権利がありそう
だ」
「最初に、バーボンをくれ!」と、レッド。
 バーテンダーは、なにも言わずに、酒をついだ。
 レッドは、1ドル紙幣を5枚、カウンターに置いた。
「初顔だな」と、バーテンダー。

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 レッドは、うなづいたが、なにも言わなかった。バーテンダーは、し
ばらく間をおいてから、カウンターをふき始め、レッドから離れていっ
た。
 
               ◇
 
 まだ、話す時間ではなかった。レッドは、頭を整理する必要があった。
それにロコの手下が、どこをうろついているかも分からなかった。バー
ボンでのどをうるおしてから、周囲の会話に耳をすませた。
「つまり、あの女は分からせる必要がある」と、やせた若者。緑のチェ
ックのスーツを着て、ジェスチャーのたびに、指の装飾をギラつかせた。
「そう、あの女は追い払う方がいい。さもなければ、ずっとつきまとわ
れるぞ」
「そうか!」と、もうひとりの若者。金のイアリングにえび茶の服。
「前にもあんな女がいた。1晩に10人か12人の客がいたが、そいつ
は数をごまかそうとするので、クビにしてやった」
 レッドは、自分のバーボンに戻った。前にしていた仕事のことを思い
出した。それは、ぽん引きを狭い室に投げ込むような仕事で、ぽん引き
のカネ目当てに多くの男たちが働いていた。やつらは、通行税と呼んで
いた。

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 仲介人、カフス上の取引き、ぶらぶら歩き。それは、とても悪く、直
す必要があった。水、悪い水で、橋の下を流れていた。
「バーボンのお代わり!」と、レッド。
 バーテンダーは、レッドが考え事をしているあいだに、カウンターの
レッドの5ドルから1ドルをとっていた。バーボンの追加を持ってくる
と、もう1ドルとった。
 仲間と同じギラギラした服の身長6フィートでやせた男が入ってきて、
バーのすみに行った。動きはすばやく、鼻でかわすようなかんじだった。
「よう、ブラッド!」と、緑のスーツ。「どこにいたんだい?」
「ピュー!ピュー!」と、ブラッド。トレーナーが笛を吹くようなジェ
スチャーをした。
「なにか分け前は?」と、緑のスーツ。
 ブラッドは、頭を振った。「しかし、新しい雪女をつかまえたぜ」
 ブラッドは、2・3歩さがってドアをあけると、女が入ってきた。
 彼女のブロンドの髪はバブルカットで、5・5フィートのフレームを
3インチ上げていた。ナイスなフレームは、肌にピッタリのブラウスと
ミニスカートに包まれていた。年は22くらいで、ほめてくれる男には
無関心という目をしていた。
 緑のスーツと金のイアリングが口笛を吹くと、ブラッドは、ほほえん
だ。

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 レッドは、市場の新鮮な肉を見るように彼女を2度見した。そんなこ
とがありえるだろうか?彼女には、安っぽいバーにまったく似合わない
非現実的な輝きがあった。
「フィフィ?」と、レッド。誰にも聞こえない声でつぶやいた。レッド
は、彼女が話したくないようなこともして、落ちぶれていった過去を知
っていた。レッドは、彼女を見つめた。顔つきは少し違っていた。体と
髪はそのままだった。
「なに見てんだ?」と、ブラッド。
 一瞬レッドは、話しかけられたことに気づかなかった。レッドは、ブ
ラッドを無視した。
 ブラッドは、レッドに近づいた。緑のスーツと金のイアリングは、ニ
ヤニヤしていた。フィフィは、あきあきしているように見えた。
「ケンカはやめてくれ!」と、バーテンダー。彼は、ブラッドの凶暴な
性格を知っていた。
「ケンカなんかしないさ!」と、ブラッド。「やつに、オレのレディを
じろじろ見たことをあやまってもらいたいだけさ!」
 緑のスーツと金のイアリングは、声に出さずに笑った。フィフィは、
自分のツメを見ていた。
「よう、聞こえてんのか?あやまったらどうだ?」
 ブラッドの周りから、客は離れ、何人かはシャムロックを出て行った。

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ブラッドは、レッドに無視されてカッカしてきた。
「おい、オレの言葉を聞いてんのか?」
 ブラッドは、レッドにナイフが届く範囲まで近づいた。声に危険な震
えがあった。
 レッドは、バーボンから目を上げて、ブラッドを見て言った。
「オレは、おまえがあこがれるようなラストヒーローなのさ」
 そして、目をバーボンに戻した。
 ブラッドは、手をレッドの肩に置いた。「どういう意味なのか?」
「手をどけてくれないか?」と、レッド。
 ブラッドは、手を後ろに引いて、レッドのあごをねらったパンチを打
った。レッドは、体をまわしてパンチをかわすと、ブラッドが2発目を
繰り出す前に、イスから降りて向き合った。
 レッドは、ブラッドの2発目を右手でブロックして、左手で半分残っ
ていたバーボンをブラッドの顔に浴びせた。ブラッドが目をこすってい
る間に、腹を2発打ち、さらに、アゴに1発打つと、ブラッドは床に倒
れた。
「名前は、フィフィ?」と、レッド。ぼんやりした表情を浮かべている
女に聞いた。
「そうだったかも?キャンディ、トリクシー、ローラとか」
 彼女の声は、まったくフィフィに似てなかった。ケンタッキーなまりが

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強かった。
 ブラッドはうめき声をあげ、緑のスーツが来て助け起こした。レッド
は、目のすみで見ていた。バーテンダーは、カウンターの下に右手を入
れていた。
 レッドは、カウンターに座った。女は、隣に座った。
「どこかで会ったかしら?」と、女。レッドの足に手を置きながら。
 レッドは、態度を急に変える人間を知っていた。しかし、この女はフ
ィフィだろうか?どこか安っぽさ、感情のなさがあった。たぶんそれは、
ドラッグのせいだ。彼女は、まるでゲームであるかのようにふるまった。
 レッドは、時を見計らって動きだした。ブラッドは、ジャケットの下
に手を入れた。
「さいふを出そうというのでは、ないらしい」と、レッドは考えた。
「オレのすそをつかもうとしてるのか?それにしても、オレの動きはの
ろすぎる。ブラッドに着くまで1時間はかかりそうだ!」
 そのとき、緑のスーツと金のイアリングが床をけった。女がドアに近
づいた。ひとりが姿を隠し、バーテンダーは、カウンターにかがんだ。
 レッドは、ブラッドをつかもうとしてよろめいた。レッドの225ポ
ンドの体は、150ポンドのブラッドにぶつかって、ふたりとも倒れた。
ブラッドの手の銀のオートマティックが暴発してカウンターの後ろの鏡
が砕け散った。

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 レッドがブラッドのてっぺんをころがすと、ブラッドから空気を抜い
たように、重力が仕事をしてくれた。ブラッドは抵抗するひまもなく、
レッドに簡単に拳銃を奪われた。
「おまえの親切を朝食にさせてもらう」と、レッド。ブラッドを助け起
こしつつ、ブラッドの拳銃は、持ち主に向けたまま。「ランチの前には、
おまえに吐いちまうだろうが」
「腕がなまったようだ」と、レッドは考えた。「オレのアッパーカット
から、もう回復してやがる!」
 バーテンダーは、カウンターの下から銃身を短く切った醜いみにくショット
ガンを構えた。レッドに向けているようにも見えた。
「こっちに向けないでくれ!」と、レッド。「バーボンのお代わり!前
のはムダにしちまった!」
 バーテンダーは、スマイルを浮かべてレッドの前にお代わりをおいた。
レッドの紙幣から代金をもらわなかった。
 
               ◇
 
 レッドは、バーボンをすすった。カウンターの後ろの鏡に残った破片
には、緑のスーツがブラッドを助け起こして、バーを出てゆくのが見え
た。ほかのぽん引きもついていった。

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「ムダな出費をかけちまったようだ」と、レッド。
「いつものことです。トイレは少しそうじがいりますが」と、バーテン
ダー。「あいつらは、なんにも注文してない」
「女はどこへ?」と、レッド。
「今夜は、ストリップショーに出るんでしょう」と、バーテンダー。
 バーの奥でビールを飲んでいたやせた若い黒人は、唯一のほかの客で
あったが、レッドのところまで歩いてきた。
「ここ、いいですか?」と、彼は言って、レッドの返事を待たずに隣に
座った。
「お好きに!」と、レッド。バーボンをすすってから、バーテンダーに
言った。「カネが入ったら、鏡代を払うよ!」
 バーテンダーは、苦笑にがわらいしながらうなずいた。
 レッドは、空中を見ながら考えた。「なにかしてカネを稼がねばなら
ない。しかし、なにを?ロコを捜して、車を流す?ロコはすべての背後
にいて、オレは、鏡代を心配しなくてはならない!」
「すこし眠る必要があるな」と、レッドは考えた。「酒もタバコも控え
て。ロコはパーティをするだろう。汚い仕事のために、強力な軍隊を持
っている。オレには、この両手以外に信用できる仲間もいない」
 レッドは、隣の若い黒人の視線を感じた。
「なにかお気に入りのものでもあるのか?それとも、ただのウィンドウ

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ショッピング?」
「あなたはいい動きをしてる」
「もうおいぼれだよ!動きがいいように、見えただけさ!」
 若い黒人はうなづいた。「出身はどこです?」
「いろいろさ、いろいろ」
「初めてあなたを見たとき、警官だと思った」
「かつてはな。遠い昔さ!」レッドは、ゴミが付いてないかグラスを調
べた。
「12年前のことだ」と、レッドは、つぶやいた。「仕事で街の酒場を
なん軒も調べていた。イーストサイドのルーシーの安宿で、太ったニッ
キーを見つけた。ニッキーは、4発撃たれていた。オレは表彰されたが、
相棒を失った」
 レッドは、水晶玉で占うジプシーのように、バーボンのグラスをのぞ
込んだ。レッドのつぶやきは、感情的で大声になった。
「パトロール中でのことだった。ニッキーは、いくつもの州で指名手配
されていた。凶悪な銀行強盗犯だったが、宿代を払わなかったために安
宿で殺された。
 いくつかの事件があった。そのうち、オレはデカと呼ばれた。安全を
求めて住まいを転々とした。数年はそこに、数年はハーレムや、チャイ
ナタウンや下町のイーストサイド。オレは、考えていることをみんなに

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話す習慣を身につけた。これは、間違いだった」
 レッドの話に、バーテンダーと若い黒人は耳をすませていた。
「オレは、悪ともうまくやる。これはもしかしたら間違いかもしれない。
金持ちになる一番いい方法は?オレはゲームを始めなかった。みんなは
安全にものごとを始めるだろう。オレの相棒は、どうなっているのか話
してくれない。それで、オレはまだゲームを始めてない。
 誰かが、オレは警察の内部調査員だといううわさを流した。警察内部
の話だ。なん人かは、オレが穀物列車を転覆させるつもりだと考えた。
オレを酔わせて吐かせようとしたが、オレはちゃんと正義というカバン
を持つことになった」
 レッドは、目の前のバーボンを一気に飲み干した。バーテンダーは、
すぐにお代わりをレッドの前においた。
「今は、なにを?」と、若い黒人。
「ちょっとしたこと。その辺で聞き込みをしたり、かぎまわったり。分
け前。誰かが、場所代を取ろうとしたら、そこにはロコの影がある」
「ロコってだれです?」と、バーテンダー。
「だれとも言えない。しかし、ロコは、この街のすべてを仕切っている。
どういう人物かほとんど分かっていないが、汚いカネにはすべて関わっ
ている。物事の背後にかならずロコがいる。オレはなんどもロコに危な
い目にあわされた。ロコはニュージャージーのどこかのマンションに住

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んでいる。オレはいつか安酒を飲まされて、宿もなく、仕事もなく、カ
ネもなく、朝を迎えることになる」
 バーテンダーは、自分の人差し指で頭の横で円を描いていたが、レッ
ドは気にしなかった。
「私はスウィートです、あなたは?」と、若い黒人。
「レッドダイモンド」
「仕事が必要ですよね、レッド?」
 レッドは青い目で、スウィートを見つめた。スウィートは、きちんと
した服装をして、ヒゲもきれいにそっていた。
「どう思う?」
「私は、ちょっとしたビジネスをしている人のもとで働いています。あ
なたの助けになるかもしれません」
「オレは、街の女を使ったり、ドラッグ取引はしない。幸運にはすがり
たいが、オレにもやり方がある」
「私もです」と、スウィート。スウィートの声は、恩着せがましく偽善
的になったが、レッドは気づかなかった。朝食代わりに飲んだバーボン
がきき始めていた。
「ほかのうじどもも、とっ捕まえた!」と、レッド。
 スウィートは、レッドを立たせた。「いっしょに行きましょう!」
「お好きなように!」と、レッド。

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スウィートは、バーテンダーに言った。「ブラウンさんが鏡代を払いま
す」
 バーテンダーは、疑わしそうだったが、うなづいた。
「迷惑かけたカネは、自分で稼ぐ」と、レッド。スウィートに、ぽん引
きの拳銃を渡した。「これを売って、鏡代にしてくれ!」
「いいですよ」と、スウィート。スウィートは、レッドにはハスラー気
質が欠けると感じた。
「ブラウンって誰だ?」と、レッド。ふたりは、陽ざしの中へ出た。
「ボスです。あとで紹介します」
 レッドは、なにも言わなかったが、背を少し高く見せようとした。肩
をいからせて、もったいぶって歩いた。
 用心深く目を細めて、青空を見上げた。
 いい日になりそうだった。








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137





            4
 
 街角のコーヒーショップで、ジャワコーヒーの最初の一杯が注がれて
いた。磨かれたばかりのグリルで作られるベーコンエッグのおいしそう
なにおいが、家庭的な店から漂った。
 1日の最後なら古い油やタバコのにおいだったろうが、レッドとスウ
ィートが向かった朝は、新鮮なにおいがレッドの空腹を刺激した。
 レッドは、太ったウェイトレスが運んできた、ベーコンエッグとトー
ストを2枚食べ終わるまで、なにもしゃべらなかった。ウェイトレスは、
レッドからお代わりとコーヒーを追加されて微笑んだ。
「ブラウンという人は、どんなビジネスをしてるんだい?」と、レッド。
お代わりを食べ始めると、尋ねた。
「不動産関係です」と、スウィート。歯を見せてニヤニヤしながら。
「ボスのビジネスをそれほど長くは続けるつもりはありません」
「しかし、全部話してくれないか?」
「ルールがいくつかあって、ルール1は、いっさいしゃべるな、です。
取引の内容も分からないし、あなたがどこから来たかも知りませんが、
それでいいのです。なぜなら、あなたは十分ジャイブしてるからです」
 レッドは、ジャイブの意味が分からなかったが、スウィートは明らか
にいい意味で使っていたので、尋ねなかった。ジャイブは、自然なかん

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じに思えた。
「それで、ブラウンさんはオレにどんな仕事をくれると思うかい?」
「ボスはまだ、あなたのことを知りません」と、レッド。「すぐに紹介
しますが、興味ありますか?」
「今日は、まだ、ほかに仕事がない」と、レッド。皿から最後の一口を
たいらげながら。
 スウィートは、朝食代は自分がもつと言ってきかなかった。レッドは、
強くはさからわなかった。食事は、すべてスウィートのおごりになった。
レッドは、スウィートが好きになった。ただ、調子がよすぎるので完全
には信用できなかった。レッドは腹がすいていて、スウィートのおごり
で新鮮な朝食にありつけた。
「ホテルに1室用意します」と、スウィート。コーヒーショップを出る
と言った。「そこでゆっくりシャワーを浴びて、ひと眠りしてください。
今夜、ブラウンさんに会いに行きましょう!」
 インタウンホテルに近づくと、眠るというアイデアは抵抗しがたいも
のになった。レッドは、ロビーへの6段の階段を、足をひきずるように
あがった。
 ロビーでは、ふたりの老人が古い白黒テレビを見ていた。このホテル
の経営者は、老人たちが自由にテレビを見れるようにロビーを開放して
いた。鉢植えの大きな植物も、テレビを見る老人たちのように、どこか

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不健康に見えた。すべては日々良くなりつつあったが、それは時々刻々
というよりは、日々の速さであった。
 レッドがロビーを見ているあいだ、スウィートはホテルのフロントと
話した。ホテルのフロントは、疲れた目をしたヒスパニック系のやせた
男性で、スウィートの話にうなづいた。
「私は6時に戻ります」と、スウィート。レッドに室の鍵を渡しながら。
 エレベーターは、レッドの階までやっと上がり、レッドは室になんと
かたどり着いた。廊下のカーペットのかびのにおいが、鍵を鍵穴に入れ
るまで、レッドを眠りから防いだ。
 レッドは、室に入るとドアを蹴って閉めると、バタンという音が終わ
るまでにベッドでいびきをかいて眠っていた。
 
               ◇
 
 レッドは、カサブランカ空港にいた。フィフィの乗った飛行機の光が、
空気中の細かい霧を照らしていた。「時の過ぎ行くままに」が空港ロビ
ーに流れていた。ミリーがいて、出発の合図を求めていた。合図は、ペ
ーパーバックの本に隠されていた。ミリーは、レッドから本を奪いとり、
飛行機はレッドを乗せないまま飛び立とうとしていた。ノックの音でレ
ッドは目覚めた。

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 枕の下の拳銃をつかもうとしたが、なにもなかった。眠っているあい
だに盗まれたのか?
 前日のできごとがよみがえった。夢とおなじくらい不確かであいまい
だった。ポケットにあった25口径をつかんで、ドアへ歩いた。
「だれだ?」
 ロコに居場所が見つかったのか?レッドダイヤモンドは、場末のホテ
ルで死ぬ運命だったのか?
 しかし、ロコの手下ならノックはしない。レッドはドアをあけた。
 だれもいなかった。床にトレイが置かれていて、ヘアブラシに安全カ
ミソリ、マウスウォッシュ、新しいシャツに下着があった。レッドはト
レイを中に入れてドアをしめた。
 レッドは、自分の不精ヒゲの顔を見てから、受話器を上げてフロント
にダイヤルした。
「今何時だ?」
「ダイアモンド様、起きられました?」と、ホテルのフロント。
「ああ、今何時だ?」
「ちょうど5時です。スウィートは、あなたを6時までにしたくさせる
ように言ってました」
「そのようだ。ありがとう」
「ええ、ブラウン氏がこのホテルのオーナーです」

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「1時間で、スーツをプレスできるか?」
「ええ、手配させましょう」
 レッドは、ボーイが来る前に、拳銃をマットレスの下に隠した。レッ
ドは、バスローブに着替えて、来ていた服をボーイに手渡した。
 ボーイは、白髪の老人で背を曲げた姿勢をしていた。レッドは、服を
渡すときに、5ドル紙幣を出した。
「女が必要で?」と、ボーイ。新聞の売り子のような声で言った。「そ
れは、ボスがいい顔しません」
「いや、ボスについて教えてくれ!」と、レッド。
 ボーイは、紙幣に手をのばしたので、レッドは、紙幣を離した。「ブ
ラウン氏についてだ!」
「彼は、ここのようなホテルをほかに2つ所有してます。6軒のバーと
かいろいろです。宝くじのノミ屋から始めて、名声はいいものばかりで、
タフな仕事もありますが、悪いうわさはありません。ドラッグに関わり
がありませんし、ギャンブルもしません。いつもソフトな仕事です」
 レッドは、5ドルをボーイのしわくちゃの手につかませた。ボーイは、
それを靴の中にしまい、レッドに歯を見せて笑うと、服を持って出て行
った。



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 スウィートは、レッドとカーブに立って、激しく手を振ってタクシー
を止めようとした。
「このキャブめ!」と、スウィート。「黒人を乗せる時間もないのか!」
「そう、責めないでくれ!」と、レッド。「つまり、オレが心配してる
のは、見られたり、そんなことがあったら━━━」
 スウィートは、言葉を言い間違えているレッドを見た。
 シティカーサービスのビュイックが止まった。
「乗るかい?」と、いかつい顔をした黒人の運転手。
「ジプシーには用はない!」と、レッド。
「つまり、イエスという意味です!」と、スウィート。ドアをあけて、
レッドをにらみつけた。
 レッドは、いやいやながら乗り込みまっすぐ前を見ていた。運転手は、
バックミラーでレッドの様子をうかがっていた。レッドは、居心地悪そ
うだった。
 スウィートも、ぼんやりした笑顔で黙ったまま、そわそわするレッド
を見ていた。
 コロンバスサークルの北、数ブロックでタクシーを降りると、スウィ
ートは料金を払い、ブラウン不動産と窓に書かれた店の前まで、レッド

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を連れて来た。
 赤毛の胸の大きな秘書が、ふたりにあいさつした。
「お待ちしてました。中へどうぞ!」と、秘書。
 秘書は、レッドにウィンクされたが気にするそぶりはなかった。レッ
ドは、女の扱いにはなれていたが、よくからかったりしてスリルを味わ
った。スウィートは、レッドの腕をぐいと引いて奥のドアへ向かった。
秘書が机のブザーを鳴らすと、スウィートはドアをあけた。
 室は、すべてがブラウンで、木目の壁も、厚いカーペットも、フット
ボール場よりは広くはない机も、テーブルも、手彫りのイスも茶色だっ
た。机の後ろの革張りのイスに男が座っていた。
 太い首が、広い肩を包むカスタムメイドの茶のスーツから突き出てい
た。まるでレモンを絞って飲まされているような顔をしていた。渋い顔
は、レッドを見ているあいだ変わらなかった、
「こいつが言っていた男か?」と、ブラウン。砂利を紙やすりでこすっ
たような声だった。「それほどのやつには見えん!」
「モデルをお捜しなら、場所を間違えたようだ!」と、レッド。「秘密
諜報員だったんで、ウェールズ王子には見えないのさ!」
「ブラウンさん、これがレッドダイアモンドです!」と、スウィート。
 レッドは、1歩前に出て、手をさし出した。ブラウンは、無視した。
「ボディガードの経験は?」と、ブラウン。

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「ああ」
「ふつうのセキュリティ?」
「ああ」
「探偵は?」
「ああ」
「道とかも詳しい?」
「ああ」
「よし、だいたいは分かった。オレについて知ってることは?」と、ブ
ラウン。イスに深く座った。
「オレをここへ連れてきたスウィートを雇っている。ついでに言うと、
カーペットを新しくする余裕がある。ホテルを他に2つ所有していて、
いくつかのバーも。かつては、宝くじのノミ屋だった。やりかたは、常
にクリーンで、フェアだと言われている」
 スウィートは、まるで先生がスペルのテストでいい点をとった生徒を
見るように、笑いを浮かべていた。
「おまえが教えたのか?」と、ブラウンは、スウィートにいた。
 スウィートは、頭を振った。
「どこで知った?」と、ブラウン。渋い視線を、レッドに向けた。
「あっちこちで、ちょこちょこと。もしもバラしたら、誰かにうらまれ
る!」

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「保証しますが━━━」と、スウィート。ブラウンから波が来て、スウ
ィートを黙らせた。スウィートは、ポケットからキャンディを出して、
チョコレートのようにガリガリかじり始めた。
 ブラウンがレッドを見ているあいだ、かじる音だけが室に響いた。
「室は防音に違いない!」と、レッドは考えた。通りのブレーキやクラ
クションの音が、はるか遠く、ネコのツメ音のようにしか聞こえなかっ
た。
 見つめあいが続いていた。ブラウンは集中していたが、レッドはあき
てきた。スウィートは、チョコバーの包みを破いて食べ始めた。
 ブラウンは、ニヤリとした。「よし、やとった!週500ドルに、経費
は別。今夜から!よければ、いっしょにがんばってくれ!」
 レッドが手をのばすと、今度は、ブラウンはしっかり握り返した。









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「今夜、2軒見回りに行きます」と、スウィート。通りに立ってる時に
言った。「なにか分かるかもしれません」
「ホテルの1室でボーッと見ていたのは、埃だらけの長イスさ」と、レ
ッド。タバコを吹くと、ハーレムのジャズホールの周りで地面を蹴って
遊んだ時のことを思い出していた。北を向いていたが、サックスの低音
や女たちの笑い声、酒をつぐ音が聞こえる気がした。
 カーブで黒人のジプシーキャブに乗り込むときに、レッドはタバコを
投げ捨てた。ふたりは黙ったまま、タクシーは、アムステル通りまで来
た。イエローキャブは見当たらなかった。
「87番通りにある道路の穴に気をつけろ!」と、レッド。
「なんですって?」と、中年のハイチ出身の運転手。そのときタクシー
は、大砲の穴くらいの深さのクレーターに乗り上げてバウンドした。
「今のやブロードウェイと23番通りにあるやつに気をつけてないと、
そのうちサスペンションがイカれる!」
「どうして穴のことを知っている?」と、スウィート。
「それは」
「それは?」
「ただ、それはさ」と、レッド。窓の外へ顔を向け、夜の通りを見るふ

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りをして、混乱した表情をスウィートに気づかれないようにした。
 タクシーが北へ行くほど、通りにいる上品ぶった顔は少なくなった。
茶のレンガ造りも少なくなった。通りに停められた輸入車は、派手な高
級車に置き換わった。高級そうな惣菜屋は、あぶらぎったリブステーキ
屋に道を譲った。通りの番号が3桁になると、たまに現れるオンボロカ
ーや板で囲まれた借地が目立ちはじめた。
 多くの肉体労働者たちが暮らしていて、夜になると街の女や詐欺師や
ヘロイン中毒者が出てきた。
 レッドは、ポケットに手を入れて銃に触れた。38口径がないことは
不安だった。あるのは25口径で、同じではなかった。なにがどうなっ
ている?
 
 
 
                            (つづく)






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